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1近世 飛騨の木材が庄川で運ばれる(その3) 2015.2.5
『二十四輩順拝図会』にみる流送−東本願寺再建用材として−

二十四輩順拝図絵

 天明8(1788)年1月30日、京都東本願寺が火災に合い、御堂と阿弥陀堂ともに焼失しました。

 江戸幕府は、その再建に寄進するため、寛政3(1791)年に飛騨の北方白川山から槻・桂・栗などの木材を伐り出しました。庄川を川下げし、金屋の御囲場に集められ、さらに筏で伏木まで運ばれました。その後は西回り航路で日本海沿い南下し、瀬戸内海を通って大坂まで舟運され、京都本願寺に着きました。焼失してから丸9年後の寛政9(1797)年3月、御堂が再建されました。

 この東本願寺再建の木材を五ヶ山中で流送している図が『二十四輩順拝絵図』に載っています。解説文には「本願寺御再建の時、御用木を飛騨山より伐出せしに、(中略)巨材悉く雄神川(庄川)へ伐落し、越中へ運送して(中略)御堂(中略)造立せし」と書かれています。

二十四輩順拝図会(えじゅうよはいじゅんぱいずえ)

親鸞聖人ゆかりの遺跡案内書。
前・後編全10冊、享和3年(1803)
京都菱孫兵衛らが出版。河内国
専教寺了貞著、竹原春泉齋画。
豊富な図を使用した名所史跡案内といった要素が強い。

『二十四輩巡拝図会』中の東本願寺御用木流送の記述

近(ちか)き頃、東の本願寺御再建(さいこん)の時、御用木を飛騨(ひだ)山より伐(きり)出せしに、さしもの巨材(きょざい)悉(ことごと)く此雄神川(をがみかわ)へ伐落(きりをと)し、越中(えっちゅう)より運送(うんそう)してやすくと都に登(のぼ)り、御堂(みだう)いよやうに造(ざう)立せしを、御門下(ごもんか)の男女心力(なんにょしんりき)をつくしたると、此雄神川の便(たよ)りよきながれあるによれり。

搬送ルート

 寛政3年(1791)、幕府の命により、天明8年(1788)の大火で焼失した東本願寺再建のため、白川郷の山より伐り出された木材が庄川を下って金屋に集められ、翌年伏木を経由して京都まで運ばれました。

白川郷五ヶ山→金屋→伏木→能登→加賀→若狭→丹後→但馬→因幡→伯耆→出雲→岩見→長門→周防→安芸→備中→備後→備前→播磨→大坂→伏見→高瀬川通→京都七条





【砺波郷土資料館『流送に生きた人々展示図録』平成26年より抜粋】


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