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5近現代 庄川の流送(その3) 2015.2.5
川下げ

川下げ

◇庄川での川下げ◇

 川下げは10月中旬ごろから始まります。一手合(ひとてあい)は20人程の人夫(にんぷ)で、ふつうは3,4艘(そう)の川舟を使って、年間約4000〜5000石(こく)の木材を川下げしました。

 最初に川入れ下材木群を木鼻(きばな)、最後に川入れした材木を木尻(きじり)といいましたが、その木鼻と木尻の距離は4kmにも及びました。川入れが終わった10月下旬から川狩(かわが)りが始まります。

 川狩りとは、岸や岩に引っ掛かっている木材を鳶口(とんび)で押し、川の流れに戻す作業のことをいいます。川舟に乗る人夫と、川沿いを歩きながら川狩りの補助をっする人夫とがいました。

 一艘の川舟には4人1組で乗り、前と後ろには舟を操る船頭が乗り、その間を中乗りと呼ばれる2人が岩に引っ掛かった木材を鳶口で押し出す作業をしました。急流の中、大量の木材と岩の間を左右に移動する川狩りはとても危険な仕事で、船頭の腕に頼るしかありませんでした。庄川の船頭の腕前は定評があり、越中舟夫(せっちゅうせんぷ)として全国でも有名でした。

陸揚げ

◇陸揚げ◇土場(どば)/渡場(どば)入れ

 庄川を流れ下ってきた木材は、二万七千石用水の取入口に到達します。木鼻が到達するのは、毎年12月中旬ごろで、それより前の10月下旬に丸太で川倉を組み、本流を積み上げて流送の全作業が終了し、流送夫の仕事もこれで終わりました。そしてようやく、残りの賃金が払われると流送夫は家族の待つ家へ帰りました。

コラム 中野村の出稼ぎ組合

 中野村の農民たちは農業だけで生計を立てることができず、出稼ぎに出ることを余儀なくされていました。特に中野村は庄川沿岸に位置し、子供のころから川に慣れ親しみ、自然と川舟を操作する技術が身に付くことから、流送の仕事で出稼ぎに出る人が多くいました。

 明治末期から大正にかけて出稼ぎ人の数が次第に多くなるにつれ、多くの問題が起きるようになり、当時の村長藤井四右衛門は、これらの問題を解決し、かつ村人の生活をより豊かにしたいと考え大正11年に出稼ぎ組合の設立を提唱し実現しました。


◆設立当時の役員

組合長 藤井四右衛門   副組合長 飯田兵三郎
幹事  藤井四平      幹事    水上六之助
幹事  羽柴丹蔵  
組頭  藤井助九郎     組頭 太田常次郎
組頭  畑 太八       組頭 清原茂八
組頭  南部清吉      組頭 藤井作蔵
組頭  川田与蔵      組頭 横山佐一郎
組頭  清原勇次郎

(『中野村史』より)





【砺波郷土資料館『流送に生きた人々展示図録』平成26年より抜粋】

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