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7現代 活躍の場を広げて−満州・南樺太−(その2) 2015.2.5
満州

満州での流送
 昭和初期、庄川の流送夫は、開拓が進められていた満州へ流送しに出稼ぎに行きました。
富山から下関までは汽車で移動し、そこから船で朝鮮半島の釜山に渡り、さらに朝鮮半島の鉄道を北上し、満州国に入りました。そして南満州鉄道や国有鉄道に乗って各方面に向いました。 流送した木材は軍事用材でした。満州の川は大きく、幅が広かったので、バラバラにならないよう、筏に組んで流したとのことです。
 だんだんと情勢が悪くなり、危険が及んだので、満州での流送は昭和14、5年ほどで終わりました。


満州(Manchu)
  一般的に満州は、中華人民共和国の北東部と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区東部の範囲一帯の俗称です。 満州には山脈や河川が多く、各国との境界は川や山脈によって分けられていました。 昭和6(1931)年、大日本帝国関東軍は柳条湖(りゅうじょうこ)事件を発端として満州を占領し、昭和7(1932)年に満州国を建立。多くの日本人が開拓のため、満州へ渡りました。 昭和20(1945)年の第二次世界大戦終結とともに満州国も消滅しました。

南樺太

南樺太での流送
 満州と同じように、庄川の流送夫は南樺太にも出稼ぎに行きました。 南樺太は北海道の北に位置しており、富山から青森までは汽車で北上し、青函連絡船で海を渡ると、再度函館から稚内まで汽車で北上しました。稚内から船で数時間掛けて渡り、南樺太の大泊(おおどまり)に入ってからは南樺太の地名や川の名前は日本名がつけられていました。
  南樺太は北海道の自然と似ていたので、同じような方法で流送をしました。川の高低差が少なく、ゆったりと流れていたとのことです。 南樺太での流送は、満州より少し長く続けられていて、昭和17年に落合町(現ドリンスク)の内淵川(ないぶちがわ)での流送をした記録があります。


樺太(Sakhalin)
  樺太(現サハリン)は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置している島です。 島の面積は、北海道よりやや小さく76,000㎢です。自然資源が豊富で、島の面積の約50%が針葉樹林の森林地帯です。 明治38(1905)年、日露戦争後のポーツマス条約締結によって、北緯50度以南の樺太が日本領土となり、南樺太と呼ばれ、行政機関として樺太民政署が設置されました。 第二次世界大戦後はソ連領に編入されました。 現在はロシア連邦のサハリン洲。


【砺波郷土資料館『流送に生きた人々展示図録』平成26年より抜粋】

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