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3中野(その2) 2016.2.6
4中野出(なかので)

1堂島(どうじま)
 
 この地の微高地にお堂を建て、神仏を祀り、この地をお堂の島と名付けたのか、上流よりお地蔵様のお堂が流れついたのでこの名があるのか、さだかでない。

2横江下(よこえした)

 現水上佳吉前で新又口用水より取水し東西に流れる用水を横江口というこの江川より北方面の下流を横江下と名付けたのではないだろうか。
・サタロウヤシキダ(佐太郎屋敷田) 佐太郎一家は病死し、屋敷は田に開く。

〈中字〉

・モンベエシマ(紋兵衛島) 雨潜村(高瀬村)の紋兵衛なる人が本村に来たり、所々の不毛地を御田願をして開墾をなして所有地としたが、便宜上一か所に集め、天保11年加賀藩の検地の結果、中野出村として1か村をなす。開墾者の名をとって紋兵衛島ともいう。

5新明(しんみょう)

1東島(ひがしじま)
 新明村の開拓は千保川に沿って始まり、川の東を東島、川の西を西島と呼び、ここを中心に開墾が始まったと思われる。
・ショウワモンダ(庄右衛門田) 清原庄右衛門、明治39年に一家は北海道に移住する。宅地は田に開墾する。
・ショウベヅクリ(庄兵衛作り) 清原庄兵衛は代々肝煎を務めた家であった。明治初年頃、戸主天折により一家は城端町に移転する。当家は新明村、中野村の清原家の総本家と伝えられている。
・ロクベヤシキダ(六平屋敷田) 一家は明治37年北海道に移住する。宅地は田に開墾する。
・タケジロヤシキ(竹次郎屋敷) 竹次郎一家は川崎市に移住する。
・ヒャクワリジマ(百割島) 加賀藩の田地割りの時に、新明村では一番の良い田地場所であったので、この名が伝えられている。
・タロベエヤシキアト(太郎平屋敷跡) 住宅移転により、宅地は田に開墾する。


2東川原島(ひがしかわらじま)

 天保元年(1830)頃まで、新又口用水と千保川の間の川原で茨の木やぐみの木の繁茂する川原、草原であったが、人口の増加とともに漸次東島により西に開拓され、新又口用水の東を東川原島と名付ける。

 ・ドブジマ(溝島) 新又口用水の上で用水に沿っての約一町五反歩程である。当地方では水溜や堀をドブといっていたが、当場所付近は水溜か堀になっていたのでこの名がついたと伝えられている。
・アナグチ(穴口) 新又口用水の下で用水に沿って約一町歩程にこの名がある。耕地の深い所から見ると、この付近で、水が渦巻いて穴のようになっていたので、この名がついたと思われる。
・イチベヤシキアト(市兵衛屋敷跡) 村上市兵衛の一家は北海道に移住し、跡地は田に開墾する。
・シンミョウニホンドイ(新明二本樋) 庄西三用水改修(舟戸口用水、新又口用水、若林口用水)まで、新又口用水の上を舟戸口用水が樋で交差して流れていたので、この名で呼ばれていた。


3中川原島(なかかわらじま)

 東川原島と同年前後、微高地より開墾した物と思われ、新又口用水と千保川の間を中川原島と名付ける。なお、この地に開宮が祀ってあった。

・ヒラキミヤアト(開宮跡) 昔この地を開墾した時に八幡社を建立したが、昭和29年に新明神社に合祀し、跡地を田に開墾する。


4西川原島(にしかわらじま)

 西中野より千保川の川岸に沿って、南西より北西に向かって川除堤防があり、その堤防と千保川の間で西新明集落や西中野集落の人が開拓史、西川原島と名付ける。


5西島(にしじま)

 西中野よりの川除堤防の西で新明村の西の島であるので、西島と名乗る。
・タニグチヤシキアト(谷口屋敷跡) 谷口周造は雄神村三谷の人で、千葉医学専門学校を卒業し、明治42年同地にて開業する。昭和10年頃死去により家族は名古屋市や移住し、屋敷跡は田に開墾する。



<中字>
・ニシジンミョウ(西新明) 西島のこと。新明村の西で、舟戸口用水と新又口用水の川原や野原をはさんで、西にある集落であったので、西新明と言っている。









【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】

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