砺波市の文化を、デジタルで楽しむウェブサイト。TONAMI DIGITAL ARCHIVES

4五鹿屋(ごかや) 2016.2.6
五鹿屋地区の大字・小字一覧


























 地区名 大字小字 
 五鹿屋 1五郎丸1川除外 2大島 3西田島 4北島
5寺島 6飛地 7簗場 8山窪
  2鹿島1瑞光島 2寄子島 3クレエブチ 4十一軒
5宮島(牛ヵ窪) 6西日浦 7日向 8窪
  3荒高屋1宮田島 2鍋蓋島 3八兵衛島 4辻西 5塚越
6大島 7初田島 8甚田島 9向島 10牛ヶ島
11助右衛門島 12半右衛門島 13中村幡 14一町島
15散野 16外河原 17八斗丸 18塚越争島(論地島)
19横江 20横江の掛け樋 21十一間樋 22証文江
23水戸 24フゴ江の水斗 25与三左衛門川の水戸
26助右衛門口の水戸 27鹿島江の水戸
  4花島1散島 2花島 3荒源島

1五  郎  丸(ごろうまる)

1 川 除 外(かわよけそと)

   川除=堤防のこと。川除外=堤防の外側のこと。五郎丸地区市道443号線(市道太郎丸〜古上野線)の東側で、庄川町古上野寄りの一区画。


 2 大   島(おおしま)

   現国道156号線の東側で約50町歩。比較的早く開田された。五郎丸地内でも耕土の深いところが大部で、この名がついた。


 3 西 田 島(さいだじま)

   現国道156号線西側の南半分が西田島で、面積が約40町歩。五郎丸の中でも比較的遅く開田された地域。
  ・ガメダ(がめだ)  西北端地域、約2町歩。湿地で、昔ガメ(亀)がたくさん生息していたという。


 4 北   島(きたじま)

   五郎丸東北部を北島と呼ぶ。割合水に不自由なところであった。
・ロッカジタ、カワニシ(六川下、川西)  北島地内の一部で、六川の東全体を六川下、西を川西と呼ぶ。
・ショウズクボ(清水窪)  北島の北部で、大門境で土地1反歩程だが非常に低く、以前に清水が湧出していたことにより名づけられていた。
・イセデン(伊勢田)  昔より川にはさまれて作人以外は出入出来ず、取れた米は毎年伊勢神宮に奉納していたので、誰いうとなく伊勢田というようになった。
・ウラバサ(裏端)  北島地区の東北部大門境の一部(1町歩)
・テンコダ(天コ田)  約半反程の田で表面は土表が高くて水が入りにくいので、昔は天コ田と呼んでいた。(方言で高いところを天コ、木の高いところを天コとか物や自然の頂上を天コといった。)

 5 寺    島(てらしま)

・ボンサマビラキ(坊様開)  現鹿島団地東南約100m地点。五郎丸浄蓮寺の先祖(代目不詳)が開墾開田したもので、その名がついた。基盤整備前は田4筆で約2反歩余あった。
・オボクデン(御仏供田)  五郎丸浄蓮寺東側の一区画。約3反歩程度あったが、終戦直後の農地改革の結果、大部分が耕作者の所有となった。現在は、約半反お寺の所有となっている。昔はこの田でとれた米を御仏供米にしていた。


 6 飛    地(とびち)

   庄川町筏、古上野の飛地が五郎丸の南部にあり、通称飛地と呼んだ。


 7 簗    場(やなば)

  国道156号線西側。小字西田島と寺島の間に位置する一区画。(但し昭和48年、
県営ほ場整備の結果、小字廃止とともにその区画も消滅した。(旧)地番5069〜5167
−1)高儀新村(旧種田村高儀新)の飛地。この飛地内に簗場姓の家が二軒ある。


 8 山    窪(やまくぼ)

  庄川町から細く糸のように地続きの土地に途中小高い所があり、また窪地があるの
でその地を名づけた。

2.鹿     島

皇歴第11代垂仁天皇の西暦50〜70年頃、昭和55年より1900年程前の大昔に阿彦な る者あり。人々畏服する。後一族のイツ彦はトナミの地に残党多数導き、土地を耕すこと 幾十年なりきという。その子伊夫岐、農を興し、ハタツモノ、タナツモノを作り、人々安 住す。その後宿弥の子藤津(武弟)農を教う。宿弥去るとき、武弟をこの地に留まること とす。年19才なりしが108才で死す。後父のイツ彦を偲ぶため、父のヲスヒを埋めて墓 とした。これを鹿塚と称し、今も存す。また御恩の藤津を敬慕して一片の石を坐右に奉置 した。後その子孫之を大切に奉持して祈り、鹿塚の近くに祠(ほこら)を建て、武弟神宮 (ふじつじんぐう)と称してきた。この武弟神宮へ承応2年(1653、)3月、寛文4年 (1664)7月、藩主参拝さる。なお33代推古女帝の頃、伊夫岐の末孫、次而子(つぎの いらつこ)なる人が藤津社の神鹿の大角を献上した。この角は17本の枝あり、この老神 鹿の死後、先につくられた塚に埋めて、塔を立て鹿塚と呼び、この地一帯をカノシマと称 した。

 鹿島には往昔一の社あり。其の付近に数多くの鹿群集し、村民深く之を愛す。当時未だ 米作の道開けず、たまたま鹿が何処よりか稲苗を咥(くわ)え来て、沼辺にて斃す。村民 試みに之を沼に植えしに、秋に及び見事に豊熟せり。之本村に稲収穫の元始なり(他にも 一説あり)

1 瑞  光  島(ずいこうじま)

   今の鹿島神社は瑞光島にあり、野村島の東島もこの島であった。神社の地は昔から老
杉栄え神々しく鹿も住みついていたといわれる。


 2 寄  子  島(よりこじま)

   瑞光島と隣接し、瑞光島・寄子島を総称してカノシマと呼んだ。


 3 クレエ ブチ


 4 十  一  間(じゅういっけん)

   横江と宮川の交差する十一間の樋箱のあったところ


 5 宮     島(みやじま) (牛カ窪 うしがくぼ)


 6 西  日  浦(にしびら)


 7 日     向(ひなた)


 8    窪 (くぼ)

3 荒  高  屋

<村の成立>
 本村は庄川扇状地の扇頂近くに位置し、古来数え切れない水災を受けてきたところである。当村の西側は野尻川氾濫原の高儀新・高堀等の諸村である。野尻川跡流路の主なるものの東限が宮川・鹿島江である。また村の東側は、旧中村川氾濫原の筏・古上野・五郎 丸等の諸村である。
村を形成する土地は砂礫が多く、耕土は浅く、開墾は困難であったという。故にすぐ下流の隣村鹿島・野村島・苗加の諸村の開拓(天正〜天保)よりは数十年遅れている。しかし当村と似たような立地の高儀新村は、同年代の開拓のようにいわれていた。
 もっとも開拓の遅れは、野尻川跡に残った自然流路(宮川・鹿島江)を利用し、用水とした前記諸村とは異なり、取水のために新たに用水を開削しなければならなかった立地 上の不利も、開拓を遅らせたことであった。
<開拓の状況>

 戦国の乱世が始まり、東漸した庄川も流路が安定するに及び、当村でも開墾開田に当たる者が出てきた。最初、慶長の頃の人には、助右衛門・三右衛門・久兵衛・久右衛門等少数の先住者の名が見えるにすぎぬが、松川除築堤完成の前後から急速に開田が進んだ。遠近四方の地から多くの人々が入植して開墾に当たった。当村の場合、早くにその南部に隣接していた土地(塚越)へ、高屋村覚知某なる者の一族が入植して開田(慶長)していたので、検地立村の折に新高屋村と名づけたという。しかしその開田はまだ部分的で、高屋村との関係も他に見るような本村・新村の間柄までには至っていなかった。
 当時既に高屋村は古いれっきとした村であったから、当村を新高屋村と呼ぶ方が自然 だった。
 なお荒高屋と変わったのは、新高屋では、死に通じ縁起が悪いからと荒(荒地)高屋に 変えたという。

<小字の由来>

 加賀藩政の基礎の改作仕法という田制は貢租の基本で、田地割により田畑の一枚一枚に ついて実測し、土質の良否を判定して各村の石高(面積)免租を決定した。
 貢租(年貢米)の納入は各村毎の責任としたから高持(土地所有者)の共同責任である。 田地割によって一応の所有地は決まるが、貢租の公正を期してある年限毎に田地割を実施 して、籤により所有地を決め替える。そのため、便宜上でも村を幾つかの区画(団地)に区 分し、土地の所在を判り易くすることが必要であった。こうして小字というものができた。
 その名称には、その土地の先住者、開拓者の名前、開拓由来、古事伝承等を冠しており、 ○○島と呼ぶようなことが多くあった。


1 宮  田  島(みやたじま)

   元荒高屋村。旧種田村五ケ地内飛地。明治初年村界確定し、種田村へ編入す。


 2 鍋  蓋  島(なべふたじま)

   荒高屋東南部一帯で、中村川氾濫の影響を受ける。昔、この辺りの川に鍋の蓋が流れ
てかかったのが地名の起源である。


 3 八 兵 衛 島(はちべえじま)

   村の東南寄り、旧金屋往来の辺り一帯。地名の起源は開拓者の名を冠したか、八兵衛
の居住跡、子孫等は不明。


 4 辻     西(つじにし)

   旧金屋道と、筏―福野道との辻あり。(不動明王石像)この辻の西一帯。


 5 塚     越(つかごし)

   村の南部に位置する。近世の終わりまで野尻川氾濫の影響を受け、土地浅く地力劣る。


 6 大     島(おおしま)

   氏神社の東南に展けた広く平坦な一帯。地名の起源は不詳。


 7 初  田  島(はったじま)

   村の東部一帯。寛文年間、古上野村権兵衛一族が村界の未墾地を開墾したので、初田
島といい、入植者を“バッタさ”と呼んだ。


 8 甚  田  島(じんだじま)

   村の中央東。南北に長い一帯の土地。野尻川分流「鹿島江」と旧中村川2川の氾濫の
相互干渉の様子は、今に残る両川水源・排水路の跡に歴然と見る。


 9 向     島(むかいじま)

   慶長の頃、野尻川の分流宮川はまだ大きな川であった。川の東、氏神社の北あたりに
百姓「久兵衛」が居住し、一帯を開墾していた。川の西に有力な百姓「助右衛門」がお
り、久兵衛のことを指して「向かい」(対岸の意)と呼んだ。久兵衛が始祖だからこの
一帯を「向島」という。


 10 牛  ケ  島(うしがじま)

   氏神社から北部一帯。ほとんど村の中央部に位置する。野尻川が東遷した後、宮川の
流路の跡を開墾したから土地は浅く地力は劣る。地名の由来は不詳。


 11 助 右 衛 門 島(すきよもんじま)

   まだ治水の安定しない以前、宮川の西に豪農「助右衛門」がいて一帯を開墾した。当
時助右衛門は、鹿島村「三郎左衛門」とともに地方の有力な百姓であった。野尻口から
用水を引いて助右衛門島120石を拓く始祖となった。助右衛門居住跡を伝える所あり。
子孫は絶えてなし。
  ・セドクボ(背戸窪)  助右衛門島の始祖助右衛門の屋敷跡と称される背戸方(四方)に、旧水路跡と目される幅50mばかりの低地が北方に連なる。助右衛門の後方だから背戸窪といった。(3870番地先)
  ・カワイケ(川除)  前記窪地の西に接し、北方に連なる。約10枚の地先(200m)を川除といった。この地は西方台地の良田を保護している。(3862番地先)


 12 半 右 衛 門 島(はんにょもんじま)

   宮川の東。村の北寄り、横江の上一帯。起名の由来は、百姓「半右衛門」が宮川から
取水開墾したから名づけられたのである。半右衛門の住居跡不明。


 13 中  村  幡(なかむらばた)

   村の北東部寄り、横江の上一帯。中村の住人が入植し開畑したので中村畑。


 14 一  町  島(いっちょうじま)

   文化9年(180年前)、横江(鷹栖口用水)の開削によって村から分断された約1町
歩の土地。小字名は土地の広さが約1町歩の故。


 15 散     野(ちりの)

   荒高屋村内にある岩武新村の飛地。散野は、名の通り地方各村の中にある岩武新の飛
地であるが、昔加賀藩が山廻役某に対し、各所未開の土地を一括褒賞として与えたもの
という。当村では久太郎(荒木)、理右衛門(永原)の宅地田等、村界確定により荒高
屋に編入。


 16 外  河  原(そとがわら)

   もと新高屋村として本村領であったが、中村川の氾濫で大部分が流失した。再度開墾
されたが他村領(古上野)となり、一部荒高屋村領として地図(飛地)にはあるも、そ
の箇所は特定できず現在は種田村。


 17 八  斗  丸(はっとうまる)

   往古新高屋村と称して荒高屋村領であったが、中村川の氾濫で流失し、再度開墾し一
部を残し(柏樹好一付近)、大部分が筏村領となる。


 18 塚 越 争 島(つかごしあらすじま)(論地島 ろんちじま)

   荒高屋・花島・高屋(井波町山野)の境界地で、以前は野尻口用水(二万石用水)が
幾筋にも分流し、各村の野畔・田等が複雑に入り組み、耕作者間・三村間の争いが絶え
なかった。果ては児童等までが幾重もの土居野畔を挟んで対峙し、気勢をあげ石を投げ
合う等した。争い島が「あらす島」になり、また論地島ともいった。(1551番地)


 19 横     江(よこえ)

   文化9年(180年前)、加賀藩は下流の苗加・野尻村等へ用水を補給するため、既に
開削されていた横江用水を五郎丸村三郎右衛門地先から、荒高屋・野村島地内へ新たに
用水を開削し、野村島神社方面に通水させた。荒高屋村高の喪失4石(4反)余である。


 20 横江の架け樋(よこえのかけどい)

   横江の開削によって一町島への用水路は全部切断されたから、架け樋により通水す
ることになり、この設備は鷹栖口用水の責任者として従来架け樋の維持更新を負担し
た。架け樋の数は4箇所。


 21 十 一 間 樋(じゅういっけんどい)

   荒高屋・鹿島・野村島三村の境界で、横江が暗渠(貫樋)で宮川(二万石用水)と交
差し、貫樋の長さが11間あったのでこの場所を十一間樋、十一間のはしばこ、または
単に十一間といった。文化9年、横江開削によって築造された有名な施設である。それ
以来140年間、積み上げられた江浚い土砂は高い土居山となった。大きな樋は土中に
あって見えなかったが、土砂あげ場の土居山は遠くからも眺められて有名であった。


 22 証  文  江(しょうもんえ)

   荒高屋領半右衛門島をかんがいした用水は、なお下流の鹿島・野村島領をかんがいし
ていた。横江開削のとき用水を切断したが架樋を作らず、一旦横江へ落水、下流で揚水
取水する済し替え水の約束をした。証文江(従来の用水区域を変更しない約束)という。


 23 水     戸(すいど)

   降雨時、集中する悪水を排水し、また一時用水を断水する時の排水門である。


 24 フゴ江の水戸(ふごえのすいど)

   久兵衛川、馬放口の排水門。(宮川)


 25 与三左衛門川の水戸(よいつさえもんがわのすいど)

   荒高屋口の排水門(中村川)


 26 助右衛門口の水戸(すきょもんくちのすいど)

   助右衛門口用水の排水門(野村島用水)


 27 鹿島江の水戸(かのしまえのすいど)

   鹿島用水の排水門(横江)


4 花     島(はなじま)


 1 散     野(ちりの)

   往時より俗称七瀬川と呼ばれる野尻・鷹栖方面への分水・取水口に分断され、その氾濫の都度改修が繰り返された。そのためもあり、飛地続きと聞く。

   ・サンマイノ(三昧野)  昔、墓地があった。
    ・ウマワタシ(馬渡し)  耕馬を渡す通路とした。
    ・トイノツメ(樋の爪)  用水の樋をかける常用地。
    ・ロクジュウブダ(六十歩田)
    ・カイコンダ(開墾田)  大正初期の開墾田。


 2 花     島(はなじま)

   ・イワタケノ(岩武野)  またの名を青島ともいう。
    ・シタガラ(下河原)  したがわらともいう。
    ・ミッチャジマ(三屋島)  昔から三軒であることにより。


 3 荒  源  島(あらげんじま)

   あらしまともいう。

【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】

「砺波市の地名」の他の記事

MORE

「歴史資料」のタグの記事

MORE