砺波市の文化を、デジタルで楽しむウェブサイト。TONAMI DIGITAL ARCHIVES

9高波(たかなみ)その2 2016.5.31
3 村中(むらなか)


   田・原野。善袋田の西。長瀞川と清水川の間にある微高地で早くから開拓した。938〜2740番地をいった。

  ・ヤナンワラ(柳原) 田。大堰の下。長瀞川の下。左岸で柳が繁茂していたので地名となった938〜1045番地をいい、市山久則宅の東から市山有正宅付近をいった。
  ・ヤナンワラバタケ(柳原畑) 畑。長瀞川の左岸で市山久則宅の東南にあった畑1004・1005番地をいった。
  ・マエダジマ(前田嶋) 田。長瀞川の左岸で若宮の東。柳原の北の1046〜1370番地は前田某が開拓した地と伝えられている。
  ・フカツボ(深坪) 田。村中用水右岸。若宮の上で深い堀が数ケ所あったので名付けたと伝えている。
  ・ワカミヤ(若宮) 田。若宮跡を中心にした前田島の西、深坪の下にあった。周囲には深い濠跡と思われる堀跡の一部が残っていた。特に西側の堀跡は村中長割用水として利用されて法慶寺との境界を流れていた。
  ・ワカミヤアト(若宮跡) 田(2098番地)。誉田別尊を祀っていた若宮の跡地。近年、宝篋印塔の笠石2個出土した。この若宮の奉祀、「ダンバ」の地名。この付近一帯に深い濠跡と見做される所が東西南北にあるので、江波氏一族の館趾と考えられる。江波氏は近くの木舟城主石黒左近と盟約を結び放生津城へ去ったので、この地は荒れ放題となった。江波氏一族の滅亡により忘れ去られた地となったのであろう。
  ・ワカミヤヨウスイ(若宮用水) 水路。長瀞川の大堰で取水し、左岸一帯(柳原、前田嶋、深坪)の用水で、濠跡は水路や溜池の役割を果たしていた。
  ・ナガワリ(村中長割) 田。深坪の下。法慶寺、法慶寺三昧の東にある若宮一帯を囲む西側の濠跡と思われ、江波氏の館を守備したと伝えられている。2161〜2190番地。
  ・コマタ(小俣) 田。前田島の下。段場の東にあった。
  ・コマタハシ(小俣橋) 橋。小俣川(長瀞川の下流)に架けた橋で善袋田に通じる重要な橋があった。
  ・コマタヨウスイ(小又用水) 水路。小俣橋付近で取水し、亀尾川に落とし、再度、源光で取水した矢部村の用水。
  ・エノムカイ(江ノ向) 田・畑。小俣川の左岸。小又用水の水門の下で小又用水と小俣川の間の地をいった。
  ・エノムカイハダケ(江ノ向畑) 畑。小俣川の左岸。小俣橋の下。1222〜1228・1230〜1231番地をいった。
  ・アサバタケ(麻畑) 田。山王川の左岸。江ノ向の下。林利邦宅付近より東の山王川までをいった。元禄年間に当地で八講布を晒す記録及び晒を家業としていた「さらしや」の家も付近にあったので、麻を栽培していた地らしい。昭和初期まで江波村東部の婦人達が麻績(オをウむ)んで麻桶(オボケ)に貯めていた光景が眼に浮かぶ。
  ・バンドウジマ(板道島) 田。山王川の左岸で麻畑の下。小伊勢領村の西の地をいった。
  ・ダンバ(段場) 田。前田島の下で京稲田と江ノ向との間。段場三昧の周辺。段場は壇場が正当地名でないだろうか。
  ・ダンバサンマイ(段場三昧) 墓地。中島弘宅の西(1790番地)にあった。
  ・カメダ(亀田) 田。三吉清水川(亀尾川)右岸。若宮の下にあった。
  ・キョウイナダ(京稲田) 田。若宮の下、段場三昧の西にあった。
  ・タラインササンマイ(太郎右衛門三昧) 火葬地。朝日他隔宅の前(1822番地)にあった。現在は道路。
  ・キュウベイサンマイ(久兵衛三昧) 墓地(1844番地)。亀尾川の右岸で走り人久兵衛屋敷が放置されて原野状になった所を三昧に転用したのだろう。現在は林和博宅地内となっている。
  ・ケイバジョウアト(競馬場跡) 田。廻渕清宅の北、七分道の下。大正初期に流行した草競馬を開催した所。当時、騎手として出場した中嶋覚之は今も健在である。
  ・ハタケダ(畑田) 田。亀尾川の右岸で源光の上をいった。
  ・ハタケダマタキ(畑田又木) 田。亀尾川の左岸で源光の西をいった。
  ・マタキ(又木) 田。亀尾川の左岸で矢部村領境までをいった。
  ・ヤスケダ(弥助田) 田。弥助が新開した地で段場三昧の西にあった。
  ・リュウブンショウガッコウ(隆文小学校) 明治7年2月、江波・矢部・荒屋・夏住等の6ケ村で中嶋仁之宅の西北に建てた小学校。生徒数62名。位置については江波と矢部の村境で矢部村の地籍であったのだろうと考えられる。明治10年に空家の新左衛門宅(真行寺寺中=支坊)に移転した。校名を「三惜小学校」と改めた。
  ・ゲンコウ(源光) 田。亀尾川右岸。矢部村の上。亀田の下をいった。
  ・ガメノオカワ(亀尾川) 川。若宮の堀・三吉清水の水を集めて亀田・畑田・源光等の用水。一歩二歩村(福岡町)で亀川といって山王川に注いでいる。
  ・ガメノオノハシ(亀尾橋) 橋。矢部村との領境の橋で毎年松明を持った子供達が石合戦した所。
  ・サンキチノショウズ(三吉の清水) 中山清夫宅の西にあった湧水池の湧き水と上流の若宮堀の水を集めて清水抜きから三吉清水川へ、亀尾川へと注いでいた。西野三吉がいたので三清水と呼んだと伝えている。
  ・カワナカジマ(川中島) 田。三吉清水川の左岸で住吉社・真行寺との間の低地。ミヤノヒガシ、ゴボウノマエの総称であった。
  ・ミヤノヒガシ(住吉社の東) 田。三吉清水川と宮との間をいう。
  ・ゴボウノマエ(真行寺の前) 田。三吉清水川と寺との間をいう。
  ・オミヤサマヤシキ(住吉社境内) 寺社地。2225番地。ア.「正徳の堂宮社号帳」には住吉社(荊宮)と観音の2社が記載されている。イ.文政10年に観音の境内を拡張して、3348番地の住吉社を御遷座の上、本社観音と末社若宮・末社伊勢宮を合祀して住吉社と称した。ウ.明治初年の神仏判然令で観音を祭神より除いた。エ.明治40年に指定村社に指定される。オ.大正元年に無格社諏訪社を合祀して江波神社と改称した。カ.明治30年頃、北海道に住吉社の御分神2社(東土狩神社、句人神社)が奉祀されている。
  ・ゴボヤシキ(真行寺屋敷) 寺社地。2268番地。真行寺住職朝日氏は木曽義仲と行をともにした叔父新宮十郎源行家の末裔といわれ、家紋は源氏の笹竜胆である(朝日東湖説)。戦国時代末に福野町広塚の真行寺川原に草庵を結んでいたが、弘法行脚して当地に至り、従者与茂助とともに徳右衛門に草鞋を脱ぎ、現在地に草庵を結んだといわれている。その後、広安村の三太郎・又五郎・太右衛門・善右衛門等が徳を慕って来村したと伝えている(栄前田滅渡説)。基盤整備後に真行寺墓地・学校屋敷等は真行寺境内に編入された。
  ・ゴボノハカバ(御坊墓地) 墓地。2267番地。本堂南側の墓地をいう。
  ・ガッコウヤシキ(学校屋敷) 宅地。2269番地。境内の東北角にある。ア.真行寺の代々の住職は自坊に村内の子弟を集めて寺子屋を開いていた。後に離村した朝日新左衛門(真行寺寺中=庵室)の家屋を補修して使用した。イ.明治10年に矢部村境にあった隆文小学校をここに移転した。ウ.明治16年に三惜小学校と改称した。エ.明治21年に江波小学校と改称した。オ.明治22年に高波小学校と改称した。カ.明治23年に真行寺は焼失したが、学校は類焼を免れた。キ.明治25年に明禀小学校と改称して北高木村に移転した。
  ・ポンプコヤ(消防ポンプ小屋) 真行寺の焼失に懲りた村人達は学校の移転による空家を利用し、竜吐水1台を配備してポンプ小屋とした。昭和初期には腕力ポンプ1台を購入して、管理を江波青年会にさせて今日に至っている。
  ・トウミョウデン(灯明田) 田(2539〜2652番地)。村中孝春宅付近から東は法慶寺(法華寺の宛字)北墓場の下まで。往時は御灯明用の菜種の栽培地であったらしい。
  ・トウミョウセン(灯明堰) 堰(2652番地付近)。村中孝春宅の南にあった用水の取水堰。
  ・ホウケイジハカバ(法慶寺北墓場) 墓地(2545番地)。広橋憲宗宅の西にある墓地。出土物には五輪塔の空1個。地下1mの所から骨壺が出るのは何を意味しているのだろうか。
  ・キタウラ(北浦) 田。清水川の右岸で「タンコロ橋」の東西に通じる道の上までをいい、北浦は田地割に使用されていたので、あちこちに地名とされている。
  ・キュウゾサヤシキ(市山久蔵屋敷) 田。945番地。
  ・イヨンサヤシキ(伊右衛門屋敷・竿田伊三郎) 田。1003番地。
  ・ヨザインサヤシキ(朝日与左衛門屋敷) 田(1055番地)。
  ・ゴヨンサモトヤシキ(五右衛門元屋敷・林吾十郎) 畑(1057番地)。1707番地へ移住後、伏木へ転住した。
  ・ソオッサヤシキ(倉宗四郎屋敷) 田。1063番地。後に491番地に転住し、その後、絶家した。
  ・ヤヨンサヤシキ(弥右衛門屋敷・廻渕弥三郎) 田。1271の1番地。明治30年、江波団体員として北海道に移住した。
  ・ヤヨンサノアライ(弥右衛門分家屋敷・廻渕直吉) 田。1271の2番地。北海道に移住した。
  ・サンシロサヤシキ(中嶋三四郎屋敷) 田。1312番地。
  ・ジンサクサヤシキ(甚作屋敷) 田。1332番地。

 

・ジロウヤシキ(次郎屋敷) 田。1344番地。移住先は不明。
  ・ニザインサヤシキ(仁左衛門屋敷・竿田藤五郎) 田。1504番地。後に1471番地に転住した。
  ・モトジロサヤシキ(廻渕元次郎屋敷) 田。1519番地。移住先は不明だが、多分北海道だろう。
  ・ツネジロサヤシキ(常次郎屋敷) 田。1531番地。移住先は不明。
  ・ジンサクサヤシキ(中嶋甚作屋敷) 宅地。1651番地。明治29年北海道へ移住したので、林佐太郎が入居した。
  ・サラシヤヤシキ(晒屋屋敷・林源七郎) 田。1702番地。金沢市へ移住?
  ・イッツァウサヤシキ(森下市三郎屋敷) 田。1714番地。北海道へ移住した。
  ・ロクサウサヤシキ(廻渕六三郎屋敷) 田。1716番地。本家六右衛門に同居後絶家。六右衛門別家廻渕安太郎が入居。明治36年、安太郎が仁木家に復籍して北海道江波団体の地に移住した。
  ・セイヨンサヤシキ(清右衛門屋敷・中嶋清三郎) 田。1745番地。明治30年江波団体員として北海道に移住した。
  ・チョウジロサヤシキ(中嶋長次郎屋敷) 田。1805番地。同上。
  ・キクジロサヤシキ(柴田菊次郎屋敷) 宅地。1846番地。北海道へ移住。その後に林博信が入居した。
  ・コウジロサヤシキ(武田幸次郎屋敷) 田。1832番地。2663番地へ移住した。
  ・ジンマツサヤシキ(中嶋甚松屋敷) 宅地。1851番地。高岡市に転住したので弟、宇一郎が入居した。
  ・ブンシロサヤシキ(西野豊四郎屋敷) 田。1916番地。明治末に分家豊次郎へ同居したが、絶家となった。
  ・マタゴロサヤシキ(高嶋又五郎屋敷・高島理吉) 田。1950番地。2489番地へ転住した。
  ・ニレンサヤシキ(仁郎右衛門屋敷・栄前田幸次郎) 田。1957番地。明治末頃に北海道へ移住した。
  ・ヒコヨンサヤシキ(彦右衛門屋敷・栄前田彦九郎) 宅地。1980番地。昭和初期に朝鮮に移住。終戦時に戸出町へ引揚げた。後に武田武雄が入居した。
  ・ゼンクロサヤシキ(栄前田善九郎屋敷) 宅地。2054番地。明治末期に北海道へ移住した。後に栄前田滅度が入居した。
  ・ヘイジロサヤシキ(中川平次郎屋敷) 田。2135番地。北海道へ移住した。
  ・ヒョウザイサヤシキ(兵左衛門屋敷・前田兵次郎) 田。2151番地。広安新七が北海道に移住するまで同居していた。その後高岡に転住した。
  ・ショウスケサヤシキ(庄助屋敷・西嶋伊平) 宅地。2160番地。終戦後、栄前田勇三が入居した。
  ・カヘイサヤシキ(倉嘉平屋敷) 宅地。2279番地。本年高倉美智夫が新築して入居した。
  ・イチベサヤシキ(高倉市平屋敷) 畑。2270番地。2279番地に転居した。
  ・シンミセ(廻渕やい新店) 宅地。2294番地。大正初期に亀尾川右岸に建てた風呂屋。後に高嶋栄吉が入居した。
  ・シヘサヤシキ(四平屋敷) 宅地。2298番地で明治後期に北海道に移住。その後に佐藤武吉・中嶋朝吉・栄前田勇三郎が入居していたが、現在は空屋敷となっている。
  ・ヨモッサノアライヤシキ(与茂助分家屋敷・朝日才一郎) 宅地。2299番地から隣接地に昭和55年頃居を移したので空屋敷となっている。
  ・セイキョッサマヤシキ(朝日専慶・真行寺支坊) 寺社地(2300番地)、宅地(2301番地)。昭和23年頃高岡市へ転居。その後勢子義雄が入居した。
  ・マタサウサヤシキ(又三郎屋敷・佐野定次郎) 田。2396番地にいたが、明治後期に北海道へ移住した。
  ・マタベサヤシキ(又兵衛屋敷・佐野又蔵) 田。2477番地にいたが、明治後期に北海道へ移住した。
・マッションサヤシキ(増右衛門屋敷・中川与三郎) 宅地。2489番地にいたが、明治30年江波団体員として北海道へ移住。高嶋理吉が入居。
  ・マゴベサヤシキ(孫兵衛屋敷・山崎孫四郎) 宅地。2492番地にいたが絶家。終戦後、上野正一が入居している。
  ・キュウベサヤシキ(久兵衛屋敷・高嶋久次郎) 田。2499の1番地いいたが、明治35年頃、4243番地に転住した。
  ・ケイサノアライヤシキ(善兵衛分家屋敷・佐藤甚太郎) 田。2532番地。後に本家に同居した。
  ・ウラアライヤシキ(裏分家屋敷・西嶋伝四郎) 宅地。2574番地にいたが、大正初期に金沢市へ転住。その後、西嶋正次が入居している。
  ・キッチョンサヤシキ(吉右衛門屋敷・山崎吉四郎) 宅地。2594番地にいたが、明治末期に北海道へ移住した。高島善太郎が入居した。
  ・ソトジロサヤシキ(柴田外次郎屋敷) 田。2616番地にいたが、明治30年、江波団体員として北海道に移住した。
  ・シザンサヤシキ(次左衛門屋敷・西嶋善四郎) 畑。2663番地にいたが、明治29年に北海道へ移住した。その後武田幸次郎が入居したが、昭和初期に1980番地に転住し、畑となっていた。
  ・キュウザンサヤシキ(久左衛門屋敷・市山才市郎) 田。2713番地にいたが、大正初期に以前の屋敷に戻る。
  ・マゴサウサヤシキ(山崎孫三郎屋敷) 宅地。2722番地。後に山崎初三郎が入居した。


 4 向島(むこうじま)

   田・原野。村中の西。清水川と岸渡川の間の2741〜4899番地の所で3185・3186番地及び3829〜3851番地を除いた地をいった。

  ・イナリ(稲荷) 畑・田。朝日恒次宅西、南。微高地稲荷の頂上に稲荷社(七社村の長岡神社に合祀)を奉祀していた。元来、江波村領であったが、江波村の某が七社村に売却したとの説がある。高い所は畑(七社村領)、周囲の下段は水田に開き江波村領であった。
  ・カケアガリ(登り) 田。稲荷の東側、朝日恒次宅の西の稲荷畑と下段の田との高低差が大きく一気にかけ登らねばならなかったので地名となった4483〜4580番地。
  ・ヒガシバイチ(東場市) 田。宮森川の左岸、稲荷を含んだ4359〜4477番地。地名の由来不明。
  ・ウマワタリ(馬渡り) 水路。稲荷へ行くのに宮森川を渡らねばならないので、浅瀬を利用して馬を渡らせたので、この地名が付けられた。4417と4416番地の間をいった。
  ・バイチナガワリ(場市長割) 水路。東場市の中、稲荷畑の下。中場市・西場市の水不足解消のため、大正初期に西嶋慶次郎氏が私有地を割いて開いた用水4440の2・4444の2・4480の2番地をいった。
  ・ナカバイチ(中場市) 田。東場市の下。深坪と西場市の間。茶の木を含む。4478〜4579番地をいった。
  ・チャノキ(茶の木) 田。中場市の北。圃場整備の結果七社村領に。法慶寺の僧が植えたという茶の木があった。
  ・ニバイチ(西場市) 田。中場市の西の4581〜4644番地をいった。
  ・イセミヤ(伊勢宮) 田。場市の西。高嶋重雄宅の東南。旧伊勢宮跡付近。4581〜4627番地をいった。
  ・イセミヤアト(伊勢宮跡) 田。高嶋重雄宅の南東にあった神明社。祭神天照大神の社祠があった(4624番地)。
  ・ホウケイジ(法慶寺) 田。村中長割の西。法慶寺三昧の南西(4297〜4347番地)をいい、北は村中で法慶寺北墓場があり、昔は真行寺境内まで原野となって続いていたのだろう。近年発見された宝篋印塔の笠石弐個は、伝承の法華寺由緒の物か、江波五郎由縁の物か。
  ・ホウケイジサンマイ(法慶寺三昧) 墓地。法慶寺の北隣。栄前田勇一宅の西。村中長割の西(4332番地)。法慶寺北墓場とともに法慶寺の境内であった所であろう。
  ・ナオオツカ(大塚) 田。タイト川の上流、七社村境(4715〜4730番地)。由来不明。
  ・オオツカナガワリ(大塚長割) 田。タイト川の上流左岸(4732〜4742番地)。
  ・スナタジマ(砂田嶋) 田。権現堂の西南。大塚長割の西。タイト川の上流左岸(4767〜4778番地)。砂田嶋は七社村の古名である。
  ・サガテン(三月田) 田。大塚の下。灯明田の西。御坊田の上。広安庄三宅付近。由来不明であるが、法慶寺に関係する地か。
  ・ゴボウダ(御坊田) 田。清水川とタイト川の間、旧道「7分道」の上。三月田の下(3111〜4225番地)。当地にあった法華寺の寺領でなかろうか。法華寺の付近には法慶寺北墓場、灯明日・三月堂(三月田)・権現堂の地名がある。御坊田は御棒田・御放田・持田・棒田等と宛字で書かれてはいるが、沼沢地にはなく微高地と思われた所にあった。真行寺領説もあるが、真行寺田・寺田・御仏供田等が他にあるので、御坊田は真行寺領ではないだろう。

 

・ニシキタウラ(西北浦) 田。清水川の左岸。諏訪の北。山崎隆史宅の西。下柳原に続く。
  ・シモヤナンワラ(下柳原) 田。清水川の左岸で西北側の下、諏訪の東北にあった。
  ・オスワサマ(諏訪社) ア.寺社地。3126番地にあった諏訪社で祭神は建御名方命。大正元年に指定村社住吉社に合祀された。イ.田・畑・原野。清水川と吉原用水の間で諏訪社一帯をお諏訪様といっていた。
  ・オガワラヨウスイ(小川原用水) 清水川から取水した小川原の用水をいった。
  ・ヤベミヤ(矢部宮) 田。小兵衛川原の下で吉原用水と高場用水の間(小字青山を含む)。雄神川の洪水で荊宮の下の「日美江」の沼沢地が洪水で埋められた所であろう。
  ・ヤベミヤアト(荊宮跡) 田・原野。小兵衛川原の下にあった江波村総社(住吉社、御祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命の三神)の跡地。往昔の境内は広く400坪余があったらしいが、村中2225番地に御遷座後は周囲から開拓されて明治8年には58坪になっていた。ある時の洪水で御神体が下流の矢部村に流れ、一時矢部村に鎮座されたが、ほどなく御帰還されたという伝承がある。矢部宮と書かれたので矢部村の宮という珍説がある。ヤブとヤベは似ているので、使い慣れた矢部の文字を宛字にしていたためであろう。
  ・コヘイカワラ(小兵衛川原) 田。御坊田(七分道の上)の下。矢部宮の上で高場用水の左岸の地。小兵衛(後年礫刑になった)が開拓したと伝えている。
  ・シチフンミチ(七分道) 幅約1.4mの道。小兵衛川原の上、御坊田の下を通り開村より東の江波大道に、供養橋を通り戸出に通じた主要道であった。また、伊勢道付近を通り、東の「江波大道」を通じた七社村からの七分道もあった。
  ・ヨシワラヨウスイ(吉原用水) 清水川から取水し、すぐ近くで矢部宮用水・高場用水と分水していた。
  ・ヤベミヤヨウスイ(矢部宮用水) 水路。清水川から取水して矢部宮跡の上で高場用水と分水していた。
  ・タカバヨウスイ(高場用水) 水路。清水川より取水。矢部宮跡の上で矢部宮用水と分水し、矢部宮跡の西を流れていた。高と馬の「くずし字」が似ているので馬場と間違われる。
  ・ヨシワラ(吉原) 田。矢部宮・小川原の下。清水川の下流の両岸一帯で小字小川原を含め、吉原・吉原中嶋を総称していた。
  ・ソトヨシワラ(外吉原) 田。清水川の右岸。矢部村境まで(2948〜2958番地)。古文書では「吉原中嶋」といった。
  ・ヨシワラナガワリ(吉原長割) 田。清水川の左岸(2770〜2779番地)。
  ・コチャマタヨウスイ(小茶又用水) 水路。たんころ橋(向島より村中、北浦に通じる道の清水川に架けた橋)付近で取水した用水。一旦清水川に落水し、吉原橋付近で再び取水した。
  ・アワラ(湶) 田。吉原の下。矢部村に突き出した地(2807〜2815番地)。地名のような深田。古文書では「阿王良」と書いてある。
  ・タカバ(高場) 田。嶋中川(タイト川の下流)右岸。西嶋明宅70m北。高と馬のくずし字が似ているので間違われる。
  ・クモノキ(雲木) 田。嶋中川の下流。雲ノ木橋から下清水川の左岸。由来不明。
  ・イバラカブヨウスイ(茨株用水) 水路。嶋中川の水を雲ノ木橋の上で取水した矢部村の用水。ア.取水位置について利害相反した江波村と矢部村が文化11年(1814)〜文政6年(1823)の十ケ年係争していたが、再度の十村の調停と江波村組合頭小兵衛の礫刑で決着をみた。イ.江波の子供達が毎年御精霊の晩(8月13日)に松明を掲げて小兵衛の霊を矢部村に迎えに行った。村境の亀尾橋に待機していた矢部村の子供達と小競り合いになり、石合戦に及んだことも再三あった。昭和20年、米軍の空襲も激しくなり、子供の危険防止のため、警察、学校が中に入って禁止した。ウ.江歩73歩。江代米2斗5升(江波村受領)、3000番地。
  ・クモノキヨウスイ(雲木用水) 水路。石田堰の下で取水。
  ・オケノワ(桶の和) 田。タイト川の左岸。「七分道」の下、西嶋修臣宅付近。湧水地帯なので、湧水箇所に土で土堤を築いてもすぐに崩落するので、田に桶を埋めて清水抜に水を流した。桶を利用したので地名となった。
  ・ゴンゲンドウ(権現堂) 田。武田善造宅の西北50mの3841〜4742番地。権現堂があった地。
  ・イシダ(石田) 田。タイト川の右岸。西嶋明宅の60m北。石田の中央を流れる小川を取水して西嶋与三市がタイト川に堰を築き用水の取入口とした。
  ・サクゾウ(作蔵) 田。「七分道」の下、中島孫三宅の西北をいった。
  ・トガリ(七十苅) 田。タイト川の左岸。武田善造宅北40mよりタイト川橋詰までをいった。古文書では「七十苅」と書いてある。
  ・ムカイジマ(向嶋) 田。岸渡川右岸一帯。市山太作宅より西嶋欣一宅付近までをいった。揚嶋の向側にあったので「向嶋」と称していたが、後に揚嶋・向嶋とを総称して「シマ」といっている。
  ・シマノフナツキバ(向島舟着場) 水路。岸渡川右岸。市山太作宅付近。上ノ嶋の尖端部付近。明治中期より大正初期にかけての舟着場であった。大舟でも一回転させる川幅があり、米を積んだ大舟は小矢部川に入り、高岡・伏木港へ米を運搬していた。「七分道」はここを通り東の江波大道、供養橋に通じていた。西は嶋三昧を通り、開村を経て木舟〜戸出往来に通じていた。また、その上流には三太郎の水車小屋や石灰焼場があった。
  ・イシバイヤキバ(石灰焼場) 宅地。岸渡川の豊富な水量を利用して石灰の原石を運んできて、水車で破碎して石灰窯で生石灰を作り、当地方一帯に販売していたが、火災で廃止した。跡地は広安繁雄宅になっている。
  ・テラダ(寺田) 田。ふくべ沢の東北一帯をいった。
  ・フクベサワ(瓢沢) 田。北守栄一宅南東をいった。
  ・クロベサヤシキ(九郎兵衛屋敷・西嶋久太郎) 田。3454番地。明治29年北海道へ移住。後に高島喜太郎が入居した。その後村内に転住した。
  ・ムカイ(西嶋源四郎) 宅地。3763番地。明治34年北海道へ移住。同居していた西嶋宇吉が舞鶴へ転住した。後は市山太一郎が入居した。
  ・サジベサ(佐次兵衛屋敷・西嶋菊次郎) 宅地。3898番地。明治30年頃、北海道へ移住したので竿田与市郎が入居。大正中期に中嶋孫七が入居した。
  ・サザウサヤシキ(佐三郎屋敷) 田。3982番地。明治30年江波団体員として北海道へ移住した。
  ・ゲンロクサヤシキ(源六屋敷・西嶋長吉) 田。4140番地。明治30年北海道へ移住した。
  ・イマアライヤシキ(今分家屋敷・西嶋勇次郎) 田。4171番地。大正初期に北海道へ移住した。
  ・タクヨンサヤシキ(宅右衛門屋敷・武田亀次郎) 田。4186番地。大正初期に北海道へ移住した。
  ・シンニョンサヤシキ(新右衛門屋敷・広安新七) 宅地。4234番地。自分の屋敷を離れ、前田兵次郎宅に同居したが、北海道へ移住した。その後へ山本宇三郎が入居した。明治30年、江波団体員として北海道へ移住した。後に高嶋久次郎が入居した。
  ・サンニョンサヤシキ(中嶋三右衛門屋敷) 田。4265番地より4584番地へ転住した。明治30年頃北海道へ移住した。
  ・キッツァウサヤシキ(広橋吉三郎屋敷) 田。4305番地。明治末期頃に出町に移住した。
  ・ユウベサノアライヤシキ(勇兵衛分家屋敷・西嶋友次) 田。昭和7年頃高岡市に転住した。や諏訪様の東口にあった。
  ・ツネジロサヤシキ(常次郎屋敷) 田。4345番地に居住していたが、1531番地へ移住した。その後西嶋藤四次郎宅地となったが本人が死亡したので田形となった。
  ・トウヨンサヤシキ(藤右衛門屋敷・広安宇一郎) 田。4474番地に居住していたが、昭和初期に北海道へ移住した。
  ・イソエンサヤシキ(磯右衛門屋敷・柴田竹次郎) 田。4541番地に居住していたが、明治30年江波団体員として北海道へ移住した。
  ・ゲンザイサヤシキ(源左衛門屋敷・次郎八) 田。4552番地に居住していた。
  ・カクベイサヤシキ(武田覚兵衛屋敷) 田。4635番地に居住していたが、嗣子がなく、分家の源三郎が相続した。
  ・クロサウサヤシキ(柴田九郎三郎屋敷) 田。4671番地に居住していたが、後に4113番地に同居していた。明治26年北海道に移住した。
  ・チョウゾサヤシキ(長蔵屋敷) 田。4152番地。不詳。
  ・ショウジロサヤシキ(庄次郎屋敷・田村孫六) 田。4747番地に居住していたが、明治26年北海道に移住した。

 

5 揚島(あげのしま)

   田・原野。向島の西。岸渡川と源太良川の間の4901〜5533番地の名称である。

  ・カミノシマ(上島) 田。岸渡川左岸と開用水の間で島三昧の東。市山太作の西にあった地名。・カイホツヨウスイ(開用水) 取入口は岸渡川。開村の用水。
  ・ゾウガラ(次郎川原) 田。西嶋欣一宅の西。岸渡川と開用水との間にあった。往昔、蛇蝎の棲家となっていたので地蔵様が安置されていた。西嶋久四郎が、明治30年、江波団体員として北海道へ地蔵様と共に移住したので、土地の守護仏として明治40年に再建した。昭和56年、圃場整備の時、嶋三昧の「ムカイ」の墓跡に移転した。打立野帳には「次郎川原」と書いてある。
  ・ウチノゾキ(打除) 田。開用水両岸の低地。4901〜4961番地。次郎川原の西。田地割の時、冠水甚だしく、竿打ができず、沼沢と見做して打立を止めた地と伝えられ、打立野帳には「字打除」とある。
  ・バシャク(馬借) 田。岸渡川左岸。次郎川原の下。深田のため、馬を借替えなければならなかったので名付けたと伝えている。
  ・シマサンマイカワラ(嶋三昧川原) 田。七社村境より西嶋進宅の南まで。嶋三昧を含む。4952〜5030番地。
  ・シマサンマイ(嶋三昧) 墓地(128坪)。開用水左岸、市山太作宅の西。4966番地。
  ・シラヤマ(白山) 田。嶋三昧川原の下。開用水左岸。
  ・ニシヤベヨウスイ(西矢部用水) 水路。開用水より分水。
  ・シマ(島) 田・畑・山林。源太良川の右岸。西嶋進宅付近より北。理右衛門が開拓し居を構えたのは江戸時代初期と推定され、藩政中期に「垣内江波」とあるのはここのことだろうと推定される。明治初年に「シマ」と呼称していたが、いつの間にか向島(ムカイシマ)を併せて「シマ」と称した。古文書では「揚島」。
  ・ソババタケ(蕎麦畑) 畑。源太良川の右岸の堤防。西嶋治夫宅の西より北で、昔、蕎麦を作っていたのだろう。
  ・ガケノシタ(崖の下) 田。西嶋治夫宅の北。開用水の左岸、打除の西。
  ・ガケノシタマルタ(崖の下丸太) 田。崖の下の北にあった地名。
  ・マルタ(丸太) 田。崖の下の西にあった地名。
  ・シタガワラ(下川原) 田。源太良川の右岸。嶋三昧川原の下。西嶋進宅の南にあった地名。
  ・カジョロジマ(華状呂嶋) 田・山林。下河原の西。源太良川縁。下川原の西、五社村境。由来等不明。
  ・オオノワリ(大ノ割) 田・山林の源太良川の左岸。五社村境にあった地名。
  ・オオノワリニシクボ(大割西窪) 田。五社村領の中の飛地をいった地名。
  ・オオシマニシ(大嶋西) 田。源太良川右岸にあった地名。
  ・オオシマヨウスイ(大嶋用水) 水路。岸渡川より七社村にて取水した用水。
  ・ヨンバン(四番) 田。源太良川の右岸。大嶋の西、開村境。番号のようだが、打立野帳には特に「字四番」となっているので、他の小字と同様に取扱った。
  ・サンダンジマ(三反嶋) 田。源太良川の右岸、五社村境にあった地名。
  ・オオシマ(大嶋) 田。岸渡川と源太良川の落合まで。開村・矢部村との境にあった地名。
  ・マゴジヤシキ(山本孫次屋敷) 田。4932番地。砂田太八郎が同居していたが、実家森下家に戻る。宇三郎を養子に迎えたが、ほどなく4243番地に転住した。
  ・カワラヤシキ(高田吉十郎屋敷) 田。5003番地。明治26年、北海道へ移住した。
  ・マタシロサヤシキ(田村又四郎屋敷) 田。5055番地。明治26年、北海道へ移住した。
  ・リョンサヤシキ(西嶋理吾屋敷) 宅地。5060番地。西嶋の総本家。明治14年に出町の滋芳社が倒産したのでその余波を受け、昔日の面影がなくなった。後に高岡に転住した。宅地の半分を田形とし、竹村の角玄甚吉が入居。その後、西嶋治夫宅となっている。
  ・カワラノアライヤシキ(川原の分家屋敷・高田庄三郎) 田。5293番地。アライは新家で分家を意味する。明治30年、北海道へ移住した。
  ・ゾウガラヤシキ(次郎川原屋敷・西嶋恒次郎) 田。5424番地。明治30年、北海道へ次郎川原の地蔵と共に移住した。古文書には「次郎川原」とある。



 6 小川原(おがわら)

   清水川の左岸下流で向島の下の地(3829〜3851番地)をいった。
  
  ・タンコロバシ(太古呂橋) 橋。清水川に架けた橋。矢部村用水の取入口付近。この橋に通じる道の上は下柳原と小川原の境界(左岸)となり、右岸は北浦と矢部村との境界となっていた。
  ・カワナカジマ(川中嶋) 田。清水川と矢部用水の間の中州状の地。林喜久雄宅の北100mの2752番地にあった。


 7 青山(あおやま)

   向島の中にあった矢部村領の飛地で昭和初期に矢部村と交換した田地。3185・3186番地をいった。




【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】

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