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9高波(たかなみ)その3 2016.6.3
5. 荒屋(あらや)

1 片島(かたのしま)

   田。荒屋村の北部。1〜184番地。幕末の頃より荒屋村の次三男が湧水地を開拓して家建てをした地。
  ・カタノシマジゾウ(片島地蔵) 田。松原和三郎屋敷跡に祀っていた地蔵。昭和29年(1954)、荒屋地蔵堂に併祀。


 2 二辻(ふたつじ)

   田。荒屋村の東北部。185〜294番地。中川義男宅より北。荒又川の左岸。185〜294番地。

  ・ヘミカワ(蛇川) 宝暦14年(1764)の頃は、荒又川の水量は多く、大湖沼地帯となっていた。石田幸夫宅の東。


 3 中島(なかじま)

   田。荒屋村の中央部。295〜492番地。中川長穂宅周辺より北高木村境まで。

  ・ジゾウドウ(地蔵堂) 田。位置及び建立年月日不詳。昭和29年、中島墓地に移転。482番地。昭和45年、荒屋地内の全地蔵を集めて宮島共同墓地に移転した。


 4 宮島(みやじま)

   田。社地。墓地。中島の東部。493〜806番地。

  ・シンメイグウ(神明宮) 社地。荒屋村の中央部に鎮座した宮(祭神天照大神・建御名方命)。昭和50年に切った境内の大杉の年輪は500以上あった。
  ・アラヤキョウドウボチ(荒屋共同墓地) 墓地。神明宮の前。538番地。


 5 下川原(しもがわら)

   田。荒又川の左岸。宮島の上。807〜1087番地。

  ・スワシャ(諏訪社) 田。大正2年、無格社諏訪社跡。諏訪社は村社神明宮に合祀された。810番地。
  ・イチゾウクボ(市蔵窪) 田。荒屋新村の立村(1689)後、荒屋新村の中にあった荒れ地を開拓した飛地。1088〜1107番地。
  ・ジャリヤマ(砂利山) 雑地。1012番地。終戦の頃まであった、周辺の田から出た石の集積した地。1012番地。


 6 輪ノ内(わのうち)

   田。荒又川の右岸。旧荒屋新村の北部、佐藤仁吾宅の周辺。1〜117番地。


 7 中川原(なかがわら)

   田。荒又川の右岸。旧荒屋新の中央部、佐藤萩盛宅の周辺。118〜181番地。


 8 馬場川原(ばばがわら)

   田。荒又川の右岸。中川正義宅の東南。旧夏住新村境。182〜219番地。


 9 宮ノ島(みやのしま)

   田。荒又川の右岸。佐藤弘宅の周辺。220〜265番地。

  ・ヤスケバショ(弥助場所) 田。佐伯弥助の旧宅跡と伝えられ、弥助場所と称していた。229番地。


 10 右衛門田島(うえもんたじま)

    田。荒又川の右岸。中川原の東。宮ノ島の上。


 11 三郎場所(さぶろうばしょ)

    田。荒又川の右岸。下川原の南東。


 12 京田辻(きょうでんつじ)

    田。荒又川の右岸。三郎場所の南。

 6. 坪北(つぼきた)

1 高野開(たかのびらき)

   田。坪北村の東部。東・西・北は北高木村の飛地。南は西島(高儀出)に接している。周囲の北高木村飛地・高儀出村西島より1m以上も高い原野を開墾したので地名とされた。1〜111番地。

  ・イシノ(石野) 田。高低差が大きく東の竹北新より1m以上、西の南高木より1m20も高かった。74〜104番地。北高木の荒れ地を坪内村より来て、石原を開拓したといわれている。
  ・ジゾウデン(地蔵田) 田(46番地)。北高木村4番地・高儀出村241番地・坪北新村46番地が境を接していた地(高野良秋宅の北)。坪北新村5軒・高儀出村4軒・北高木村2軒で現在も同数の家がある。明治初期に集落違いの子供達が仲が悪かったので、心配した五平(高野)さんが地蔵堂を建て子供達の「和」を計ろうと考え、自分の田圃1枚を地蔵田と名付け、その一角に地蔵様を安置した。この地蔵様の行事を「地蔵開和」と称して、現在でも上記11軒の子供達が世話をしている。


 2 茂平開(もへいびらき)

   田。東・西・南は上領、北は北高木飛地の112〜114番地。茂平が開拓した地。


 3 四郎兵衛島(しろべいじま)

   田。北高木村飛地の中にある3筆の115〜117番地。北高木の開拓した茂りを坪内村の四郎兵衛が開拓したと伝えている。


 4 中島(なかじま)

   田。西荒又川と「前ノ川」との間、南端に神明宮が鎮座されている。

  ・カネワリ(金割) 田。中島の東北の164〜173番地。この一帯は周囲より高く、水当たり悪く、表土浅く、心土は礫であった。田地割の割名を地名とした。
  ・ミヤジマ(宮島) 田。西荒又川〜前ノ川の間。南端に神明宮が鎮座されている(118〜814番地)。坪北の中では良田が一番多く、良田がある集団地。引地・一番割が地名として残っている。
  ・イチバンワリ(一番割) 田。中島の北。周囲の田より低く水当たりが良く、作土も深く引地に次ぐ良田であった。田地割の割名を地名に使用している。
  ・カワクボ(川窪) 田。荒又川の西の川縁。北は荒屋。574〜580番地。周囲の田より低く川の中の窪地だったのだろう。
  ・フネノサキ(舟ノ先) 田。西荒又川と前ノ川の合流点より南の174〜183番地。川の落合いで舟の先のような形だったので地名としたと伝えている。
  ・ドウジリ(堂尻) 田。前用水の東、是戸村境。中島の北端161〜170番地。中島の最北端に位置していたので、方言では最下位を「ドンジリ」といったのが堂尻となったのか?
  ・ヒキヂ(引地) 田。中島の南。神明宮の前218〜229番地の坪北新の最高良田で誰の引地であったのだろうか。田地割の割名を地名としている。
  ・ババショ(馬場所) 田。西新又川の東。坪北公民館の南438〜462番地。明治時代にいつも草競馬を開催した地。ある時の草競馬に、見物人の中に近くの石碑の上に登った者がいたので石碑が倒れて、その下敷きになった人は即死した。その人の霊を供養した地蔵様がある。それ以来草競馬を廃止した。
  ・キョウデンシンカワ(京田新川) 用水。取入口は荒又川で荒屋新村の用水であった。
  ・ロッカヨウスイ(六ケ用水) 水路。庄下村大門にて取水し、太郎丸・油田村則安・林村小杉を経て坪北新に至る。坪北新・荒屋新・放寺新・竹北新・横越新及び夏住新の6ケ村が相集まり協議して、水不足解消のため土地を出し合って造った用水。土地は坪北新村より太郎丸・油田則安村・砂田島村へ出していた。大門村へは放寺新村から出した。太郎丸村の分は下飛地で、油田則安村の分は三反嶋で出した。
  ・ゼンザイサヤシキ(善左衛門屋敷) 田。西新又川の左岸。明治21年、高岡市桐木町へ転出した。
  ・イッチョンサヤシキ(市右衛門屋敷) 田。西新又川の左岸。大正8年、高岡市上北嶋へ転住した。343番地。
  ・コザクラヤシキ(小桜屋敷) 田。中島の北西。大正10年、北高木に転住した。
  ・ゲンタロサヤシキ(源太郎屋敷) 田。荒屋用水の東の740番地。大正末期に当主仁木源太郎が死亡したので空屋敷となり田になった。


 5 八幡川原(はちまんがわら)

   田。北は荒屋村。東南西は北高木村辻宮にて、坪北の飛地(815〜884番地)。往古、東の北高木村辻宮に八幡宮が鎮座していたので八幡川原と称した。


 6 坊主辻(ぼうずつじ)

   道路。中島地内にある道路。この道が先で5方面に分かれていた。学識高いお坊様でも行き先が判らなくなったという辻であった。885〜886番地。


 7 上定塚(かみじょうづか)

   田。坪北新村の飛地で山王川左岸に位置している。北高木の残った荒地を開拓したと伝えている。885〜1079の2番地。

  ・ジインケイダイ(寺院境内) 雑地。998番地。山王川右岸。前に高岡道路(安養寺往還?)があった路傍に地蔵様が安置してあった。この地蔵様が今より5代前の定左衛門さんの夢枕に現れ、江波の山王川の中にいるとのお告げがあったので翌日行ってみると、水中に地蔵様がおられたので引き上げて家に帰り、堂を作って安置した。戦前に六部姿の人が参詣に来ていたといわれている。また、「歯の痛み止め地蔵」ともいわれ、歯が痛む時、病人の年数の黒豆をお供えしてお参りすると不思議なことに痛みが止まった。
  ・ハブヤシキ(土生屋敷) 田。1036番地。山王川左岸。勢子勝治宅の東北。昭和3年、大阪市に転住。


 8 下定塚(しもじょうづか)

   田。山王川の左岸(1080の1〜1153番地)。上定塚・下定塚・西川原の順序で開拓したと伝えている。

  ・ニシカガワラ(西川原) 田。山王川の左岸。東宮森村の東北。江波村定塚の上。坪北新村の飛地として最後に開拓した地。


 9 上領(かみりょう)

   田。北高木飛地と坪北新村中島の間。以前は竹北神領であったので地番は竹北新の地番であった。235〜294番地。昭和6年9月1日、村境変更により坪北新に編入した。


 10 砂田島(すなたじま)

   田。坪北新村上定塚の東。3746〜3770番地。砂田島に林村小杉の続き地番が付けられたのは、用水の潰地代替地とされたためで砂田島の地番が付されていた(3746〜3770番地)。昭和21年の農地改革によって坪北に編入した。


 11 下飛地(しもとびち)

    田。高野開の西。中島の北に2団地。地番は太郎丸の続き番号(7795〜7819番地)で用水潰地代替地とした所。江代米は出町永安軒(瑞祥寺)に納入していたが、昭和21年の農地改革により坪北に編入した。俗に「太郎丸江代」といった。


 12 三反島(さんだんじま)

    田。中島の神明宮の西、772〜776番地にある油田村則安の続き番号で用水潰地代替地。772〜776番地。油田村西尾ちよへ江代米を納入していたが、昭和21年の農地改革により坪北に編入した。俗に「則安江代」といった。


 13 東島(ひがしじま)

    田。是戸村放寺に接した坪北の東部にある。昭和6年の境界確定により、是戸村放寺より高儀出に編入した。

  ・デムラヒガシジマ(出村東島) 田。高儀出村東島と称していたが、昭和6年9月1日の境界の変更により、地籍の交換をして高儀出村に合併、出村東島と称した(19〜150番地)。
  ・タカギデムラニシジマ(高儀出村西島) 田。高儀出村西島にある151〜333・351〜424・436〜438番地の3団地を昭和6年に合併し、昭和7年に坪北新に合併し、坪北西島と称した。
  ・タカギデニシジマ(高儀出西島) 田。高儀出村を分割して昭和6年9月1日から是戸村放寺に編入された(334〜350・425〜435番地)。この中の宅地は337・338・338の2・439・440合併・441番地である。


 14 西島(にしじま)

    田。高儀出村のうち、高儀出村西島と称した。昭和6年、是戸村放寺の一部を分割して高波村高儀出村西島と是戸村高儀出村西島とした。


 15 助九郎島(すけくろうじま)

    田。是戸村との境界にある旧高儀出村(477〜489・492〜500番地)。昭和6年、高儀出に編入。昭和7年、坪北新に合併した。


 16 宮川西島(みやかわにしじま)

    田。是戸村放寺より高波村高儀出村に合併(893〜997・956〜958番地)した。


 17 上ノ島(かみのしま)

    田。昭和6年9月1日、是戸村放寺より分離して、高波村高儀に編入(1091〜1098・1132〜1136番地)した。


 18 跛島(ちんばしま)

    田。昭和6年9月1日、是戸村放寺より高波村高儀出に編入(490〜496番地)した。

  ・チンバジマ(跛島) 田。放寺の西。北高木飛地の東(490〜496番地)。昭和6年9月1日、境界変更で高波村高儀出に編入した。

 7. 南高木(みなみたかぎ)

1 新又島(あらまたじま)

   田。1〜488番地。

  ・ガケノシタ(崖の下) 田。水越久男宅の北東70mの414〜421番地。西南の角に幅30mほどの田圃に続いた出入りできる所があった。西側の高江川は途中の水門から東西に分かれていた。北で南東を流れる荒井川の下流と合流し袋状となっていたので、大雨のたびごとに堤防が決壊した。残った堤防は高かったので「ガケ」と名付けていた。
  ・カガヤシキ(加賀屋敷) 田。中島孝男宅の北80mの430〜440番地。西側高江川と東側荒江川の近接地。杉やその他の雑木が繁茂していた所。由来等は不詳。
  ・ドヤマ(土山) 雑地。中島孝男宅南300mの481〜485番地。高江川と荒井川の分水地点で流れ、砂利が堆積し、毎年江浚いの際、関係集落より人夫を出動。溜まった砂利等をモッコで吊り揚げて集積されたので小山のようになっていた。
  ・シンサンマイダ(新三昧田) 中島栄作宅北50mの405番地。北の一角に小高い場所があったが、ここでは火葬を行っていないといわれている。
  ・ウザイサヤシキ(卯左衛門屋敷) 宅地。明治後期に福光へ転居。空屋敷となっていたが、その後、中島栄作の先祖が入居した。
  ・トクベサヤシキ(徳平屋敷) 田。大島良吉宅東北60m。昭和28年、養子縁組して高岡市牧野へ転出した。
  ・セイザサヤシキ(清左衛門屋敷) 田。河原繁雄宅南20m。昭和7年、石川県大聖寺に転出した。


 2 村中島(むらなかじま)

   田。489〜1033の2番地。
 
  ・チャノキダ(茶ノ木田) 畑。水越久男宅南南東50mの540〜548番地。茶の木栽培をして、茶摘み季節には多くの近所の人を傭い、製茶して売捌いていた。
  ・ミヤガワラ(宮川原) 田(旧社地)。宮川正一宅南東70mの664〜665番地。南高木の鎮守様白山社の跡地がある。昔は南高木と小杉砂田島の両村で祭事を行っていた。明治2年に現在地(743番地)にご遷座した。この時、小杉村砂田島の住民は小杉神社の氏子となった。白山社は南高木村住民だけの鎮守様として崇敬し、祭祀をして今日に至る。
  ・シンサンマイ(新三昧) 田。石崎三郎宅北150mの815の2番地。北高木村の横江川付近の小高い所で死人の土葬をした所と伝えている。
  ・カンジャミチ(鍛冶屋道) 道。定嶋友司宅の西から西北の北高木に通じていた(769・770・772・781・782・789〜813番地)鍛冶屋道沿いに数軒の野鍛冶屋が軒を並べていた。この中の鍛冶屋小太郎(808・809番地)は家宝の「金の茶釜」を持っていた。大盗賊大滝村宅美が家来を引き連れて来襲した。小太郎は金の茶釜を抱いて南東に逃げたが、途中で深い沼に捨てた。小太郎は捕われ殺されたと伝えている。
  ・アンヨウジオウカン(安養寺往還) 道。般若野から安養寺(蟹谷郷)へ通じていた大道をいった。水越久男宅200m北の高江川の水門付近に高木場宿場があった。この大道を挟んで南を南町、北を北町と称して、共に繁昌していた。天正12年(1584)、安養寺が伏木に移り、勝興寺となり、翌13年の大洪水によって大道は寸断されたので、人の往来も少なくなり、宿場は寂れた。高木場の高木を採り、南高木・北高木と改称したと伝えている。
  ・イッツァブサヤシキ(市三郎屋敷) 田。白山社の東100m。明治中期に北海道へ移住した。
  ・シンニョンサヤシキ(新右衛門屋敷) 田。白山社の東120m。明治中期に北海道へ移住した。
  ・キチジロサヤシキ(吉次郎屋敷) 宅地。当主の死亡により絶家。その後明治10年、加藤有成の先祖が入居した。
  ・セイベサノニシアライ(清兵衛の西分家) 田。水戸一郎宅の西南40m。昭和12年高岡へ転居した。
  ・ゴヨウモンサヤシキ(五右衛門屋敷) 畑。宮川正一宅の南東。当主死亡したので絶家した。
  ・キュウシロサヤシキ(久四郎屋敷) 宅地。明治初期、伏木へ転住。その後、空屋敷となっていたが、明治16年、石崎善間が入居した。
  ・チョウヨンサヤシキ(長右衛門屋敷) 田。水戸久雄宅の東50m。死亡のため絶家した。
  ・ハンベサヤシキ(半兵衛屋敷) 田。石崎善正宅の南80m。明治初年、石動に転居した。


 3 牛喰島(うしくいじま)

   田。1084〜1274番地。

  ・ガラガラダ(瓦落瓦落田) 田。中島鉄郎宅の西北120mの1238・1239番地。昔、山王川の畔(土堤)を田形にしたが、石が多く、表土が少なかったのでがらがら田と名付けられた。


 4 善田(ぜんた)

   田。2083番地。中島鉄郎の耕作田。

 

【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】

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