10油田(あぶらでん)その1
2017.1.26
油田地区の大字・小字一覧
地区名 | 大字 | 小字 |
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油田 |
1中村
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1石田 2辻の内 3川原 4向島 5三反島 6高道 7下川原 |
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2木下
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1川東島 2川西島 |
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3十年明
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1道木 2道木島 3九郎平島 |
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4新又
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1京ヶ瀬島 2仁右衛門島 |
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5宮丸
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1熊ノ林 2流れ島 3中の島 4宇津安島 |
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6堀内
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1道幅島 2大堰島 3窪島 |
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7三郎丸
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1蛇池 2小開 3庄助開 4宮島 5中開 6南西島 7内免島 8二俣島 9堰根島10六反島 11川除外島 12西島 13内幅14川除外 15茶畑島 16川田島 17内幅島 18中開島 |
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8千代
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1松久島 2池田島 3宮流 4金叩 5西島 |
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9石丸
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1外島 2場市島 3内島 4宮島 5川中島 6川西島 7狐島 |
1. 中村(なかむら)
- 1 石田(いしだ)
・イシナダ(石名田) 石が非常に多く、宮様の参道であったと言い伝えている。
・ゴボウダ(御坊田) 寺の年貢米を作った田であるとの言い伝えがある。
・サンヤス(三安) 地主安兵衛の作男が借地してこの方面の田を作っていたので三安といった。
・チャキダ(茶木田) 法華坊の坊主が茶の木を植え、火葬場の湯茶として飲んでいたと語り継がれている。
・ホウケボウ(法華坊) 火葬場の跡地で石田島の高い丘の上の火葬小舎があった。そこに隠亡役が居住していたといわれている。
・サンマイダ(三昧田) 昭和初期にコレラが大流行した。その後火葬場の高い丘に道路を作るのに下土を掘ったところ、骨が俵に三俵も出たと言い伝えている。
・ゴボウダ(御坊田) 宮村の景完寺が火災のため移転した跡地である。
・ネコサンマイ(ねこ三昧) 昔、樹木が繁茂して、昼なお暗く終日陽の目に会えぬという場所で下級武士の具足が出土したと伝えている。
・タカデブン(高出分) 開墾以前からの高地で、高い場所はそのまま田形に直した所を高出分と名付けられたといわれる。
2 辻の内(つじのうち)
・ツジノウチ(辻の内) 川原島大流れ田及び用水等の取入口、通路が発達したので、辻の内と呼称したと書かれている。
・ヤシキダ(屋敷田) 明治の中頃、北海道へ移住した屋敷跡である。
・オシマイダ(終い田) 辻の内を通る中村用水の最末端の田であったと言い伝えている。
3 川原(かわら)
・ナガレ(流) 庄川が氾濫して田畑が流れたので流れといった。
・ナガレタ(流田) 新又川に面した場所に舟着場があったといわれ、新又京ヶ瀬地帯より新又川土山に通じていた。
・ゼニブクロ(銭袋) 堤防の土堤は大きく、茅・雑木が繁った場所を開墾した所で、財布に似た田が数枚あったと語り伝えている。
4 向島(むかいじま)
・ドブラク(どぶらく) 低地帯で排水ができがたい川のことを「ドブ川」といっていたのが訛って「ドブラク」になったのだろう。
5 三反島(さんたんじま)
・ダンナタ(旦那田) 偉い開拓者か地主が居住した屋敷跡だともいわれている。
・カワワサン(川わさん) 坪北用水が新設されたので、川と川との間の地を「カワワサン」と呼んだ。
6 高道(たかみち)
7 下川原(しもかわら)
・マタタ(又田) 新又川がよく氾濫して田の形が変わった。またぎした田もあった。
2. 木下(きのした)
- 1 川東島(かわひがしじま)
・サラシダ(曝田) 宮丸・十年明に接した所に十村安藤次郎四郎の処刑場があった。礫刑になった者の首を世間の見せしめのために曝し首として並べられた場所であった。
・クビカケダ(首掛田) 十村により処刑された者の首を掛けたので、この名称となった。現在の富山松下の工場の北西角に位置している。
2 川西島
3. 十年明(じゅうねんみょう)
- 1 道木(どうぎ)
2 道木島(どうぎじま)
・ミナゲダ(身投田) 新又川に深い淵があった。生活苦の百姓で投身自殺した者もいたと言い伝えている。また、老いて働けない者まで捨てた所ともいわれ、世にいう姥捨場であった。
・テラダ(寺田) 昔、宮丸村境に寺院があった。この寺は十村安藤家の菩提寺として建立したと伝えられるが、現在は寺の跡を寺田といっている。
・サンマイダ(三昧田) 十村安藤次郎四郎に処刑された者の火葬場跡であろう。昭和35年頃、人骨らしい物が出土した。
・チョウモンヤシキ(長右衛門屋敷) 明治中頃に北海道移住が奨励されて渡道した長右衛門の屋敷跡。
・ヤシキダ(屋敷田) 北海道移住者の屋敷跡。住人の氏名は不明である。
3 九郎平島(くろうべいじま)
・フルミヤアト(古宮跡) 江戸時代初期、加賀藩の開墾奨励で開墾に励んだが進歩しなかったので、九郎平島の川原に庄川の自然石を祀って祈願所とした。境内は樹木が繁茂し、昼なお暗く、狐や狼が棲んでいた淋しい場所であった。現在は田である。
・ドヤマノアト(土山跡) 本流新又川と則安川との分岐点にあった砂利山で、雑木が繁茂して川風を防いでいた。明治29年、中越鉄道の開設のためにこの砂利山を使用したといわれている。
【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】