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12柳瀬(やなぜ)その1 2016.8.19
柳瀬地区の大字・小字一覧































 地区名 大字小字 
 柳瀬 
1柳瀬

1村上 2二階堂 3中島 4上林
5西川原 6一ノ輪 7東川原
  
2柳瀬新

1窪田 2明堂 3干場 4七右衛門島 5砂田
  
3東開発

1内島 2東開発
  
4庄中

 
  
4下中条

1旧西領 2旧中川原




1. 柳瀬(やなぜ)

村内には上古数流の河川があり、瀬毎に網代を懸けて漁利を得たという口碑がある。これによりやなせ(梁瀬)といい、柳瀬と記するに至った。また、一説に瀬が多かったため、いやせ(弥瀬)といい、これにより転訛したともいう。


2. 柳瀬新(やなぜしん)

徳川時代、寛文5年(1665)柳瀬及び他村の二・三男の百姓が入り来たって、柳瀬村民が耕作不可能として荒れるに委せていた地を開墾して同村の墓を開き今日に及ぶ。一時は戸数47戸を数えた。土地は点在して一団をなさず、多くの飛地があって史実を語るところである。ほ場整備の際、大字柳瀬地内に飛地点在のため、不便が多かったので柳瀬に統合され柳瀬新の地名は昭和51年に消滅した。なお氏神の姫神社は、明治44年に柳瀬比賣(ひめ)神社に合祀されている。


3. 東開発(ひがしかいほつ)

元開発村とのみいい、東開発と称えたのは明治11年郡区町村編成法実施以来のことである。同村は元来中条村の一部であり荒蕪の地であったのを、今の東般若村宮森より与蔵という者がここに移住して開墾の功を積み同村の素地をなしたもので、これがため宮森村と称した形跡があるが、何時より開発村となったかは詳かでない。中古繁栄を極め寺院3ケ寺も堂々として建立せられ、現存の称名寺、高岡市(般若野村)東保新に移転した大乗寺、高岡市戸出市野瀬に移転した安祥寺等があった。


4. 庄中(しょうなか)

東開発村の一字の如く無人家であるが、近代まで独立の小村であった。庄川の東遷氾濫により本村の土地大半が流失し、かつその後数回の洪水に荒らされ今日の状況を見るに至ったものであって、堤防改修(昭和38年)以前は約2haのみを残し、更にほ場整備のよって東開発に編入され、神明社境内のみに庄中の地名が残っている。


5. 下中条(しもなかじょう)

本村は今は小集落であるが往古は非常な大村であって、庄川を越えて東般若村の地及び本村西部一帯を占め繁盛していた。元禄年間より下中條村というに至った。中條とはなかすぢの儀であって、東に東保村(以前東保7か村という)西に西保村(以前は西保3か村、現今西部金屋)があり、その中間という所から名付けたものであろう。本村は旧高4千石余の大村であったが明暦2年・寛文9年・寛政3年等、度々の大洪水に侵され、一村ほとんど不毛の原野と化し、終に衰退に傾いたものである。地元ではナカンジョ(中条)と呼称している。

 1. 柳瀬(やなぜ)




 1 村上(むらかみ)

  ・チョウベヤシキ(長平屋敷) 長平さんが移住したので、あとは水田となった。(622)
  ・カヤバラ(萱原) たくさんの萱が川の付近に茂っていたので称した。(590−1)
  ・カンノンダ(観音田) 戦国時代に長尾氏が増山城主神保氏を攻め、その際何回か同じ所で落馬したので、何かあるのかと調べたら、百姓・太郎兵衛宅に観音像が安置されてあるのを知り、田地を与え長く崇敬供養するようにいわれた田を観音田と称している。(421・422)
  ・ボウダラダ(ぼうだら田) 昔、その土地にぼうだらの木が繁茂していたので、このような名でほ場整備前は耕作していた。
  ・デンベイダ(伝平田) 伝平という宅地の呼び名(425)
  ・カワイケノソト(川除の外) 川除(堤防のこと)はかわよけと読むのが正しいが、方言でかわいけと呼びなれていた。外は外側の意味である。(11・12・13、15)
  ・クボ(窪) 東側は山林、西側は墓所群、両側は幾分高くなって、田は凹地になって北側に開けていた。それでくぼの田と呼んでいた。(80−1)
  ・サンマイゴシ(三昧腰) この田地と堤防との間に山林があり、その地帯の一部が往時火葬場としておそらく露天のまま使用されたものと推察される。その西方中央部にこれらの田が位置していることから、三昧腰の田と呼称されたと考えられる。また、この場所に所在した明治初年に建立された高原家の墓。和泉家の墓等は、ほ場整備の際他に移設修造された。


 2 二階堂(にかいどう)

  ・カギタ(勾田) 開墾した時二人で分割して司型になり、そのことから呼んだ。(339)
  ・ビルダ(蛭田) 稲作業中によく蛭が付いたところ。(1314)


 3 中島(なかじま)

  ・サンゾウノマエ(三蔵の前) 昔三蔵の前といっていたが、昔のサンマイ(焼場の跡)がいつしか三蔵といったのではないかと思われる。または三蔵という家の前なのか不明。
  ・カワナカジマ(川中島) 以前は水流の中に島となっていたが、漸次開墾されて田にしたところ。


 4 上林(かんばやし)

  ・ナガワリ(長割) 永井八助さんが地主でその所有田が大きかったので、長い田を何枚かに割って作らせていたようである。(2425・2426)
  ・エイヨモンヤシキ(栄右衛門屋敷) 現長谷川利正家の分家跡。明治30年代に北海道移住。息子長谷川太一郎は大変な腕白。悪いことをした時には木に吊されてぶたれた。怒られるのがこわくて堀勝治方の灰小屋の中で時々夜を過ごすことがあったが、家の者が知らずに熱い灰をかけて「アチチ‥‥‥」と飛び出したこともある。最近まで年賀状が堀方へ届けられた。(2640・2641)
  ・イケダ(池田) 由来不明。県道高岡庄川線の両側にあった。((新)798・802・849付近)


 5 西川原(にしかわら)

  ・マスガタ(桝方) 庄川が西に流れて千保と矢木の間を本流(今の庄西中学校のある辺り)が流れていたころ、柳瀬普請の際に人夫を数えるのに縄張りをして、中に入れた人数を30人とか50人として個々に数えずに現場に配置したといわれる。(大正5年柳瀬尋常小学校編「郷土史」による)(3305・3306)昭和47年ほ場整備までは堤防跡が残っており、冬は子供達がスキーを楽しんだ。(砺波市史441ページ写真)なお、砺波市史501ページ1行目柳瀬新小字砂田379・381とあるのは誤りで、上記3305・3306が正しい。
  ・バンバヅクリ(ばんば作り) 堺井文夫の家号を「ばんばさ」という。以前耕作していたので、その名のとおり呼称した。(3080・3083〜3086−2)
  ・タジロヅクリ(太十郎作り) 現在北村敏且の宅地に以前住んでいた人が北村太十郎である。(砺波市史409ページ参照)西川原で耕作していた田を太十郎作りといっていた。(3078・3081)
  ・ニジュウハチブワリ(二十八歩割) 明治25年頃堤防を開き、28歩位に配分したものをいう。(3121〜3125付近)
  ・ナシノキ(梨の木) 由来不明。(3400〜3424付近)
  ・タツタ(たつ田) 由来不明。(3497・3498・3399)たつ田の田植ごろはいつも雷雨などに逢ったという。竜田の意か。


 6 一の輪(いちのわ)

  ・クネンビラキ(九年開) 九か年間かかって開いた。(1042・1049・1050)
  ・シンビラキ(新開き) 庄川の流出により、ある時期を経て開墾したところ。


 7 東川原(ひがしかわら)

  ・ドカン(土管) 二番堤の築堤に当たり、二番堤〜三番堤の水田に水を入れるために堤防の中の取入口に土管を使用して、二の輪の新用水分口の川に合流した。
  ・サクドウダ(索道田) 昭和2年から3年まで、小牧堰堤築造のために庄川堤青島から柳瀬の五本松までエンジン機関車で砂利を運んだ。庄川河中からケーブルで砂利を巻き上げた田の中にエンクラができて、ロープワイヤで運転した田を索道田とほ場整備まで呼んでいた。当時運転士は山本仁一。(670〜672)
  ・サンカクダ(三角田) 新用水が出来たため、三角の田ができた。(719の1)
  ・ヨッタリナカマ(四人仲間) 庄川洪水に流れた田を四人仲間で開いたとのこと。(695−1・696)
  ・イモダ(藷田) 庄川の洪水で田が流出して砂地となりさつま藷を作っていたので、藷田と呼んだ。(288)
  ・スモウオナカマダ(相撲仲間田) 昔の人々は田植祭によく草相撲をとったそうである。賞金として、時の大地主北村甚六は東川原875番の田畑を出した。時の力士久田寛四郎(反の川関)、北村喜市郎(錦川関)、北村十太郎(若湊関)で勝敗つかず、大地主の出した田畑は3人共有のものとなり、相撲仲間田と呼び、交替で3年に一度の割合で作っていた。以来、昭和20年頃までお互いに耕作していた。(875)
  ・コンピラダ(金毘羅田) 柳瀬一の輪、村上に水神様の金毘羅堂があり、その跡地を通称昔から金毘羅田と言い伝えられた。(785・786)
  ・イシガキダ(石垣田) 不明(921)
  ・ロクベヅクリ(六兵衛作り) 不明
  ・ゴンニョモンヅクリ(権右衛門作り) 不明(838−1)
  ・カゴクンバ(篭組場) 水防用の竹篭を組むのに提供していた田のことから呼ばれたものと考えられる。(931−1)
  ・フネノサキ(舟の先) 舟の先のような形の田んぼであったから言い伝えられている。(280−2)
  ・ジュウジロマエ(十次郎前) 川原十次郎家が居住し、移転した後の田。(923〜924)
  ・スイモンジタ(水門下) 出合口用水、水門の直近の田を水門下の田と呼んでいた。(936−1・937−1)
  ・ユノマエ(湯の前) 不明(664〜698)
  ・ニタロジマ(仁太郎島) 並木仁太郎が林村へ引っ越しの際、山本喜一郎・林幸作・北村清一の3名に売ったところから仁太郎島と名付けられた。(1084)
  ・イチノワ(一の輪) 東川原の内、庄川の方から一番堤と二番堤の間の田をいう。(603〜1084)
  ・ニノワ(二の輪) 二番堤と三番堤の間の田をいう。(321〜602)
  ・サンノワ(三の輪) 東川原三番堤以西(四番堤以西の含む)。(1〜320)
  ・ソウザンマエ(葬三昧) 死者の焼場であったところ。(141)
  ・ガメダ(がめ田) 庄川の本流の跡地でガメがいたところで至る所に渕があり、子供が遊泳中に肛門を抜かれたという。(1208)
  ・ニノワ(二の輪) 庄川の河川地を南北に割り、順次一の割、二の割、三の割と整理した。その後に割りを輪と訛ったのではないかと推考される。(430)
  ・クモジ(窪地) 庄川氾濫の本流跡地で、深い断層のあるところを開墾したところ。(420)


 8 その他の地名

  ・ヤナゼオオライ(柳瀬往来) 柳瀬比賣神社東南角―柳瀬共同墓地―千保―油田駅南踏切(柳瀬踏切と称する)―小杉十字路―東中―小矢部市板橋―同市水落―石動までの道路を往古より柳瀬往来と称した。沿線では現在でも昔の呼名で柳瀬往来と称えている古老がある。
  ・ンマワタリノハシ(馬渡りの橋) 柳瀬往来が秋元口用水を渡るところを馬渡りの橋と称した。(田島幸吉西方90m、西川原3318地先)
  ・マチガワ(町川) 柳瀬万遊寺背戸から秋元光福寺前までの旧県道高岡―庄川線(市道535号線・中筋往来)に沿って流れる水路を町川と呼んでいる。中町・西町の境界であり、新町の中を流れるので名付けられたのであろう。
  ・エンベバシ(エンベ橋) 松の木公民館より県道高岡―庄川線に至る市道549号線が町川を渡る橋をエンベ橋と称しているが、由来は不明である。
  ・セドガワ(背戸川) 万遊寺の南側を流れる太田口用水(旧柳瀬口用水)が、前記旧県道高岡―庄川線で町川と背戸川に分かれる。背戸川は旧県道西側沿いの民家の背戸を通って光福寺の背戸で庄西大井川(旧堂川)に注ぐまでをいうが、柳瀬比賣神社を始め、全住宅の背戸を通っているのでこの名がある。
  ・ヤマミチ(山道) 柳瀬比賣神社を起点として東庄川堤に突き当たっているのが山道(市道536号線)である。庄川の本流が千保川であった時、庄東方面に通ずる主要道路であった。
  ・タテイシ(立石) 嘉兵衛=嘉永・安政ノ頃、肝煎トシテ本村ノ牛耳ヲ執リ、戸出村ノ米穀倉庫ニ数年続ケテ合格ノ故ヲ以テ金十貫ノ賞アリ。是レヲ以テ石碑ヲ建テ、全村民ヲ饗応セリト言伝ス。(嘉永元年頃)右石碑ヲ見レバ基石ニ道案内ノ文字アリ。標石ハ六字名号ノミナリ。(原文のまま。以上昭和5年柳瀬尋常高等小学校編「郷土史」による)。古老によれば三日三晩全村民が飲食してその余った金で道標を建てたという。


<中字>
  ・久遠寺(くうじ)(集落) 往時久遠寺なる寺院ありと口碑あるも不詳。
  ・東町(ひがしまち)(集落) 旧県道高岡―井波線の東側に沿って中町があり、その東側という意か。
  ・松ノ木(まつのき)(集落) 不詳。
  ・中町(なかまち)(集落) 東町と西町との間に字中島あり、その字のうち新町にて切断せられた南側で旧県道沿いの集落をいう。
  ・西町(にしまち)(集落) 旧県道高岡―庄川線西側に沿う一帯を称している。
  ・西の川原(にしのかあら)(地名) 大字柳瀬の現在の庄川堤防沿いを、東の川原(ヒガシノカアラ)と称している。一方、千保川が庄川の本流であった頃の名残りで、秋元口用水から西側、柳瀬領で南般若地区大字千保の間約25町歩余を西の川原(ニシノカアラ)と称している。大字柳瀬西川原(ニシガワラ)、大字柳瀬新七右衛門島・砂田・外島などからなっていた。共同墓地のほか、明治時代まであった人家もなく、施設もなかったが、平成年代に入って千柳団地(第1期21戸・第2期64戸)、花みずき台団地(第1期58戸)等が造成せられつつあり、大きく変貌してきた。

2. 柳瀬新

1 窪田(くぼた)

  ・サンマイダ(三昧田) 昔墓地であった所を開いて水田にしたので三昧田と呼ぶ。(1〜5)


 2 明堂(みょうどう)

  ・メイシャノヤシキ(眼医者の屋敷) 明治末ごろまで眼医者松本和助なる人の住宅であった。田島みすい(現在94才で健在)によれば、同年齢の娘さんがあり、一緒に現北村敏且宅にあった機織場で機織りをしていたのを記憶している。(14)
  ・エイゾウノヤシキ(栄蔵の屋敷) 明治16年の記録(新町総代に伝わる文書)によれば、塚田栄蔵なる人の宅地であった。塚田重弘家の分家であり大阪市に在住、現在文通もある。(44)
  ・トクベイヤシキ(徳兵衛屋敷) 前記に同じく、斉藤嶺雄家の分家屋敷跡。現在は杉が植林されている。(56)
  ・フルヤシキ(古屋敷) 松本伊八家(石丸屋)の住居が明治年代に現在地に移転した跡地を開いて田としたところ。(52)


 3 干場(ほしば)

  ・オオダ(大田) 314〜318番地合併。台帳面積2反8畝16歩。ほ場整備前は、柳瀬地区で一番の大面積の田であった。田嶋栄喜が耕作していた。


 4 七右衛門島(しっちよもんじま)

  ・スナバダケ(砂畑) 昔は砂地で長芋やごぼうなどを作ったところ。桐の木も三本植えてあった。また、紋兵衛島ともいうが、紋兵衛は山本正雄家の祖先という。(487)
  ・ヤグチ(やぐち) やぐちはあるいは八口で、取入口が八か所あったことから称したのではなかろうか。または、矢口(不明)か。(634〜650)


 5 砂田(すなた)

  ・ヤスベヅクリ(安兵衛作り) 「安兵衛の火事で西東」ということで安兵衛家が二軒あり(一軒は現高原安一宅)、火災が発生して「どちらだ」と皆が確かめ合ったという。火災を出して転居したものであるが、その時期は不明である。林清納が耕作していた。(740外2)
  ・ヨシズンガワブチ(吉住川ぶち) 吉住川の由来は不明であるが、907番地付近で金屋口用水に入っているので北般若吉住へ流れるという意味か?沿線の田を田島孝吉耕作(昭和29年頃農地の交換分合計画事業が実施せられるまで)。
  ・チョウベヤシキ(長兵衛屋敷) 往古長兵衛なるものの住居あり。移転先は不明。付近の(旧)831番地に南常次郎家があった。火災に遭い、久遠寺堤防下にバラック同様の仮住宅があったが、その後高岡市に移住して成功している。(822の1外7付近)


 <中字>


 ・新町(しんまち)(集落)
   大字柳瀬新にて詳述した通りであるが、東町・西町・中町より後で開村し、村制の施行された後、長たらしいので柳瀬新を新町と称したものであろう。近時、千柳団地が出現したので特に区分した。


 ・西島(にしじま)(集落)
   長靴形をした柳瀬地区の爪先にあたり、県道高岡―庄川線の西側に散居集落をなしている9戸の人家がある。西町3戸と新町6戸であるが、古来特に隣保共存意識が強く、戦前戦後にかけて5と10の日に順番に風呂を沸かして、全戸が入浴したり、冬の橇・セメント混合の鉄板・同スコップ・米選機等を共用し、西瓜・茄子苗等の共同栽培・販売をしていた。また、大八車2台を共用(格納小屋とも)していたのを記念して「車会」という会を作り、年2回集合して県内外の懇親旅行などを行っている。

 

【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】

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