砺波市の文化を、デジタルで楽しむウェブサイト。TONAMI DIGITAL ARCHIVES

A米づくりとともに 2014.5.20
(1)網の目のような用水

古上野のどんど

 広々と広がる砺波平野の水田と散村。そのやや東に片寄って、ゆったりと北に向かって庄川が流れています。砺波平野は、この庄川の扇状地を中心にしてできている平野です。

 我が国にある多くの扇状地では、水田に利用されず、畑になったり果樹の栽培が行われたりしていますが、砺波平野の場合は、そのほとんどが水田になっています。その理由を確かめてみたいと思います。

 まず、一つに庄川の水量が大変豊かなことがあります。多くの扇状地では、砂や小石が主に堆積しているため、水は地下へしみ通って、地上の流水が地下に一時もぐって流れる伏流水となります。そのため、扇状地の中央部に当たる扇央部では水が得にくくなり、一般的には果樹園や畑地が多くなります。ところが、砺波平野では、しみ通る水の量以上に多くの水が庄川によって供給されます。これは庄川流域が冬の降雪を中心にして降水量に恵まれているからです。そのため、庄川扇状地の場合は、水を比較的たやすく引けるので、水田耕作が可能になっています。

 もう一つ、この水を運ぶ仕組みである用水路網があります。庄川は、砺波市庄川町金谷付近の扇状地のかなめの部分を扇頂として、洪水のたびごとに土や砂を堆積させながら川筋を変えて平地をつくってきました。

 庄川は、奈良や平安の時代のころは扇頂当たりから西北の方向へ、幾筋にも分かれて流れていましたが、しだいに東へ流れを変えていきました。1585(天正13)年の大地震による洪水で、今の庄川が流れている辺りへ流れの中心が移っていきました。

 

 それまで多くの交流が作られて網の目状になっていた川跡は、水田に水を供給する用水として利用されていきました。そのために平野のどこでも水の利用が可能になり、多くの水田が開かれることになりました。

 庄川から引かれる用水には、左岸(西側)に二万石・船戸口・鷹栖口・若林口・新又口・千保柳瀬口などの用水があり、右岸(東側)には芹谷野・六ケ・針山口の各用水があります。以前は、それぞれの用水が庄川本流から別々に水を取り入れていましたが、水の少ない時期には上流と下流の用水で水争いが起こっていました。

 また、1930(昭和5)年に発電のための小牧ダムが建設されて、河床が低下することが予想されたので、それぞれの用水の取り入れ口を合わせて一つにする合口化を行うことになりました。1939(昭和14)年に砺波市庄川町金谷地内に合口ダムが完成して、すべての用水に水が行きわたるようになりました。

 庄川から用水に流れ込んだ豊かな水は、幹線から支線へと用水路網を流れ下り、水田を潤しました。用水は水田耕作だけでなく、一部は家が建っている敷地内にも取り入れられて生活用水として利用されました。合口ダム建設後には幹線用水路沿いの中野発電所のように低落差発電にも利用されました。

(2)耕地を周りにもつ農家

 桜の季節も過ぎ、チューリップが咲き始める頃、砺波平野では水田に水が入り、田植えの準備が始まります。周りの山々から平野を見ると、水を張った水田が鏡のように照り返して見事な景色となっています。一軒一軒の農家が、大きな湖の中に緑の小島が浮かんでいるように見えます。

 この小島は、平野に散らばった家々です。カイニョと呼ばれる屋敷林が周りを取り巻き、まるで森の中に家があるようです。ここでは、多くの農家が米づくりに励んできました。

 散村のほとんどの農家では、家の周りに自分の水田があります。これは、散村の成り立ちと深い関係があります。今から500年ほど前に扇状地の中央部に出てきた人たちは、自ら開墾した土地にそれぞれ家を建てたと考えられています。

 江戸時代に砺波平野を治めていた加賀藩では、年貢をかける割合を公平にするために「田地割」と言って、田の良し悪しによって水田を分けて、くじで耕作する人を決めました。しかし、多くの人たちは、くじで引いた田をお互いに交換して自分の家の周りの土地を耕作するようにしていました。

 第二次世界大戦後に実施された農地改革で地主制がなくなり、耕作していた土地がすべて自分の土地になりました。それ以前は約90パーセントがすべて他人の土地を耕作する小作農か一部他人の土地を耕作する自小作農でしたが、農地改革によってほとんどの農家が自作農となりました。さらに、農地の交換分合も行われて、農家の多くが家の周りに耕作する水田をもつことになりました。

 扇状地の水田の多くは「ザル田」と言われるほどに水持ちが悪くて、朝、水田に水をいっぱいに入れても夕方には空になっているという状態でした。しかし、自分の耕作する水田が家の周りにあれば、水の管理がしやすく、また、収穫期には家の周りの田の水を抜いて、稲の乾燥や脱穀の作業を行うことができました。また、網の目のようにめぐらされた用水路網は、家の周囲を巡り、農業用水として使用されるほか、飲み水や洗濯の水、農具などの洗い水としても使われました。さらに、大正時代には、傾斜した扇状地を流れる用水を利用した螺旋水車が発明され、農業機械の動力として利用されました。

 昭和30年代からの高度経済成長以降、農業は全国的に大きく変化し、米づくりが盛んな砺波平野においても様々な変化が起こってきました。別の項目でも述べられているように、圃場整備が広く行われて大型の農業機械が使われるようになり、農業以外の仕事に就く兼業が盛んになりました。そのためにすべての農作業、または一部の農作業をほかの農家に任せる農家が多くなりました。これは「請負耕作」と言われ、兼業農家に代わって米づくりを行う農家や農家のグループが現れました。中には、組合や会社などの仕組みとして農業法人をつくる人たちも出てきました。また、地域全体で水田を守り、経費を少なくする「集落営農」(集落全体で集落の耕地を耕作する)も広がってきました。この集落営農の中心になる「中核農家」の育成も大きな課題になっています。

(3)米と種籾とチューリップ

 庄川の豊かな水と肥えた土壌に恵まれた砺波平野は、米を多く生産する豊かな穀倉地帯として長い間地域の経済を支えてきました。今も、秋に入る頃になると、黄金色の稲穂に染まる水田の中に、屋敷林が点々と広がっています。

 よい米づくりは、よい土作りから始まります。昔は、ニシンなどの魚肥が使われました。第二次世界大戦後でも、水田の裏作としてレンゲを植えて田にすき込むことが広く行われました。また、扇状地の水田は、水が浸透しやすいために、米の収穫の前に稲が枯れてしまって減収になる傾向があったので、昭和20年代の後半より上流から粘土質の泥を流して土壌の改善を行う流水客土事業が行われ、水持ちのよい水田に変えられました。

 砺波市では、庄川町五ケ辺りを中心にして種籾の生産が行われています。この地域では、庄川沿いに吹き下ろす強い風が夜中から朝にかけて吹き込むため、朝露や霜が降りにくく、強い稲が育つと言われています。そのため種子が充実しており、種籾の質がよいことで全国的に知られています。

 春になると、雪解けとともに緑の芽を出したチューリップが、絨毯を敷いたように鮮やかに咲き誇り砺波の野を覆います。砺波平野は新潟県蒲原平野などとともに日本におけるチューリップ球根の大生産地です。

 砺波平野でチューリップ栽培が始まったのは1918(大正7)年に東砺波郡庄下村(今の砺波市八木)の水野豊造さんが、水田の裏作として行ったのが始まりです。現在砺波市では、5月のゴールデンウィークを中心にしてチューリップフェアが催され、全国から多くの人々が訪れています。

(4)変わる砺波平野の農業

 昭和30年代から始まった高度経済成長によって、砺波平野の農村にも大きな変化が起きました。

 その一つに農業の機械化があります。それまでの「田起こし」作業は、人力や牛や馬を使って行われ、人手と時間を多く必要とする大変な仕事でした。昭和20年代の後半から普及し始めた耕運機によって、水田の耕作はきわめて効率的に行えるようになりました。1961(昭和36)年に、農業とほかの産業の所得のバランスを図ることを目的につくられた農業基本法も、砺波平野の農業や農村の姿を大きく変えました。それは、圃場整備と言って水田を大型化して形を整える事業が広く行われるようになったからです。

 1962(昭和37年に砺波市や福野町(現在の南砺市)の4か所で圃場整備作業が始まり、しだいにほかの市町村でも実施されていきました。これによって一区画が縦100メートル、横が30〜40メートルの長方形で、広さ30〜40アールの大型の水田となりました。

 水田の大型化によって農業の機械化はますます進み、田を耕すためにトラクター、米の収穫にはコンバインが使用されるようになりました。収穫した米の乾燥や精米も共同で行われ、あちこちにライスセンターなども建てられてゆきました。

 さらに、農道や用水路、排水路も新しくつくられました。それまでの自然の川を利用していた曲がりくねった用水は、大型水田に沿って直線的につくり直され、崩れなくて水が漏れないようにコンクリートで固められていきました。そのために用水路の水は効率よく流れるようになりました。しかし、魚や虫などが住みにくい水路となり、流れも早くなって子どもたちの水遊びの場もなくなっていきました。

 農道は2車線の広さとなり、農業機械や一般の車が通りやすくなりました。幹線道路だけでなく砺波平野の隅々まで道路網が広がり農業のためだけでなく工場が農村地域へ進出するのにも役立ちました。1965(昭和40)年頃には、砺波地方の安くて広い土地を求めて大きな工場が建てられていきました。その主なものに小矢部市の自動車関連工場や福光町や福野町(ともに現在の南砺市)に進出したアルミ関連の工場、砺波市の電気関連の工場などがあります。1988(昭和63)年に全線が開通した北陸自動車道は、関東や関西の大都市圏との時間的距離を縮め、砺波地方への工場の進出をさらに加速させることにつながりました。これらの工場の農村への進出は、農業機械化で余った労働力を工業へ振り向け、「農工一体化」を推進するものでした。

 1975(昭和50)年頃から、各市町村でも圃場整備が終わった農村地帯へ大規模な住宅団地が建設されていきました。さらに、1985(昭和50)年頃から、各市町村でも圃場整備が終わった農村地帯へ大規模な住宅団地が建設されていきました。さらに、1985(昭和60)年頃になると、農家の跡継ぎ不足で水田を手放す家が多くなったので、水田1,2枚の小規模な住宅開発が盛んに行われました。水田1枚で、8軒から12軒ほどの住宅ができるので、散村の中に住宅団地が見られるようになりました。


【砺波市立砺波散村地域研究所『砺波平野の散村「改訂版」』2001年より抜粋】

FILE

「『砺波平野の散村』」の他の記事

MORE

「散村」のタグの記事

MORE

「景観の保護」のタグの記事

MORE

「扇状地」のタグの記事

MORE

「アズマダチ」のタグの記事

MORE

「マエナガレ」のタグの記事

MORE

「入母屋」のタグの記事

MORE

「カイニョ」のタグの記事

MORE

「ワクノウチ造り」のタグの記事

MORE