砺波地方の開拓は、庄川の洪水の被害が少ない平野の周囲から進められ、次第に中央部に水田が開かられていきました。また、江戸時代より前には、砺波平野の南側にあった寺の門前に人々が集まって暮らし始め、井波町や城端町、福光町などの町ができました。また、人々が多く通行する北陸道に沿って、今石動町、立野町、中田町、などの宿場町もできました。
江戸時代初め頃、五箇山を除く砺波地方の平野部には、およそ480の村がありました。やがて、庄川に新しく堤防がつくられたり用水が整備されたりして開拓が進むと、野尻野新村、徳万新村、増山新村など「新」の名がついた村や鷹巣出村など「出」の名がついた新しい村がいつくもできました。
また、米や野菜などの農産物や暮らしに必要な衣類などを売り買いするために、三日や六日というように毎月一定の日に市場が開かれ、鎌や鍬をつくる鍛冶屋などの家々がある新しい市場町が砺波地方のあちこちにできました。また、近くの村々から出てきた人々が集まってできた杉木新町、福野町、福光新町、津沢町、さらに、街道に沿って戸出町や福岡町などもできました。
砺波平野では、農家が一戸一戸散らばっていますが、これらの町もまた、およそ4〜5キロメートルほどの間隔をおいて網の結び目のように点在しています。
江戸時代の終わり頃までに、砺波平野にある村の数は630ほどに増えました。それに五箇山の谷あいにあった70ほどの村を含めると、砺波郡全体では700ほどの村ができていました。
江戸時代初めの1649(慶安2)年に、杉木村や太郎丸村など6つの村の百姓16人が、藩の奉行所に新しい町をつくりたいという願い書きを出しました。それは、長さ300間(約545メートル)、幅80間(145メートル)の広さの土地に100軒の家を建てて、ここで「三」と「九」がつく日(3日、13日、23日、9日、19日、29日)に市を開きたいという内容でした。藩は、早速この願いを聞き届けました。そこで、近くの村々から出てきた人たちが家を建てて、そこで店を開き、いろいろな商いを始めました。やがて、新しくできた町に藩の蔵や役所もできました。この杉木新町のことを、いつしか「出町」と言うようになりました。そこは、今の砺波市の本町一帯になります。下の地図(絵図)は、江戸時代の終わり頃の杉木新町の様子を描いたものです。
地図をみると、中央に東町、中町、西町、が一筋に並び、西側は福野町や津沢町に続く三叉路の道まで家々が連なっています。また、南の方には井波町に向かう道があり、その道に沿って藩の役所の敷地もあります。東側には神明宮の前から左側に折れた道に沿って家々が並んでいます。用水路が何本も通っているのは、防火用や生活用水として使うためと思われます。
【砺波市立砺波散村地域研究所『砺波平野の散村「改訂版」』2001年より抜粋】
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