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1(1〜3)砺波平野の屋敷林を育んだ風土と歴史 2014.9.18
(1)砺波平野の開拓と屋敷林

展望台から

 屋敷林に囲まれた農家が平野の一面に点在する砺波平野の散村風景は、緑に覆われた多くの小島が大海原に浮かぶ姿にも似て美しい。この緑の森は砺波平野の長い歴史と風土の中で生まれ、人々が屋敷林として大切に育てた森で、先人が自然との共生を図った知恵の結晶である。

 砺波平野の屋敷林の成立時期は定かではないが、平野の開拓時にさかのぼり、原生林の一部を屋敷林として残したのが始まりであろう。

 庄川と小矢部川が運ぶ土砂の蓄積によって形成された砺波平野は、緩やかに傾斜し、豊かな水と肥沃な土に恵まれ、弥生時代にはすでに一部に稲作が見られた。奈良時代には条里集落が作られ、奈良東大寺領の開田も行なわれた。その後、開拓が進むにつれてどの家も周りの水田を耕作することができる稲作に便利な散居の形態をとる村が、次第に多くなったようである。さらに、江戸時代には砺波平野を治めた加賀藩は、散村形態には合わない田地割制度を施行したが、その後、散村集落の形態と屋敷林の存在に理解を示し、農民が考えた屋敷林の木陰部分の年貢を軽減する「陰引き」や、田地割後の耕地の交換を認めたことで散村は存続拡大した。

 やがて、堤防の構築などの治水事業や、灌漑用水の整備に伴って、屋敷林につつまれた散村集落が平野全体に広がった。

(2)自然的風土と屋敷林

 砺波平野は三方が山に囲まれた盆地状の平野である。冬は雪が振って寒く、夏は30度を超す日が続く暑さである。また、1年を通じて西風が卓越する。孤立した散村の農家では寒い冬をしのぎ、吹雪や雨風から家を守り、夏の強い日差しを防ぐためには屋敷林は欠くことのできないものであった。

 屋敷林の配置は、一般に南側から西側にかけて高く、厚い配置であるが、強風の卓越方向によって若干異なる。春砺波平野にはフェーン風が吹く。南砺の一帯、庄川町から城端町にかけての山麓一帯では、特に強い南〜南東の風が吹く。この風に備えて屋敷林の配置は南側が厚い。福光町の医王山山麓では、西側を厚くして卓越する西風に備えた屋敷林が多い。かつて、庄川は幾筋かの支流に分かれて扇状地を形成し、富山湾に注いでいた。その本流は大洪水でしばしば流路を変える暴れ川であった。古代から中世にかけての本流は、谷口の青島(現庄川町)から西に流れ、川崎(現福野町)で小矢部川に注いでいたが、約600年前(応永年間)の洪水で野尻川に移った。その後の洪水で中村川、新又川、千保川と徐々に東へ移り、現在の庄川が本流となったのは約400年前(天正年間)であり、堤防ができ河道が定まったのは約200年前(寛政年間)のことである。扇状地の開拓に伴って作られた散村では、洪水を避け、農地は微高地を選んで建てられた。しかし、大洪水が発生すれば田畑の流失のみならず、家屋の流失や浸水被害もみられた。洪水から屋敷を守る土手(堤)や石垣が築かれ、竹、スギ、カシ、ヒサカキなどの水流に強い木が植えられた。安定した堤防が築かれる以前は、屋敷林が水害を防ぐ大きな役割を果たし、水害が多発した地域では、上流部に石垣や土手を築き、厚い屋敷林を配した三角屋敷もつくられた。

(3)屋敷林の樹々

 砺波平野の屋敷林は、水を好むスギが主体である。これにアテ(アスナロ)、ケヤキ、カシ類、エノキ、竹などが加わる。砺波平野はスギが育つには良好な環境で、年降水量が2500〜3000ミリメートルの多雨地帯で、屋敷の周囲には水田が拡がり、かつては扇状地の豊かな水の流れる素堀の小川(用水)が屋敷をとりまいた。屋敷林の樹木はこの水を吸収してよく育った。

 常緑針葉樹のスギはよく育ち、防風効果もあり、落葉や小枝はよい燃料となり、冬の暖房には欠かせないものであった。またその材は建築用材など、用途が広いため最も多く植えられてきた。成長が遅いアテはヒバ、ヒノキとともに落葉は燃料には適さないが、柱材や戸の桟などに利用されるために、大切に育てられた。ケヤキも家の建築用材として、また、木質の硬いカシやエンジュは農具や大工道具の一部に加工されるなど、それぞれの木の特質を生かして利用する多くの樹木が育てられていた。竹は強風や洪水を防ぐのに役立ち、食料や建築材料・生活用具・農業資材などに広く利用された。

 「高(土地)は売ってもカイニョ(屋敷林)は売るな」ともいわれ、大きな屋敷林は住む人の自慢でもあり、先祖代々大切に守り育てられてきた。

江戸時代の文書(もんじょ)に現れる屋敷林

「屋敷林」のことを砺波地方では一般に「カイニョ」「カイニュ」「カイナ」などという。

 江戸時代の地方(ぢかた)の文書のなかでは「垣根」という文字が出てくる。たとえば川合文書(富山大学付属図書館蔵)の享保11年(1726)の留帳の中に使われている。十村の川合が自分の屋敷にある大きい木を藩へ報告しているものである。これをどう読んでいたかは定かではないが、婦負郡中沖村島倉家文書(富山県立図書館蔵)の元禄14年(1701)5月の文書(文書番号19)の中に「次右衛門屋しきのかいねニ而御座候」とあり、「かいね」と読んでいたと思われれる。

 加賀藩では「七木の制」といい、松・杉・槻(けやき)・檜(ひのき)・とが・唐竹(からたけ)などを無断で伐採することを禁じているが、屋敷林も「百姓垣根七木」といい百姓持林七木に準じて扱っていた。七木の取締りは山廻り役があたっており、その任務について寛延3年(1750)正月26日の触れ(「川合留帳」)の中に次の一項がある。

一、御郡の者、垣根の木無拠趣について、拝領仕度旨申候者格別ニ候、畢竟茂リ有之候ヘハ村立見隠ニも罷成、其上火除風除のためにも候間、ケ様の品相心得、とくと詮議を遂げ、為相願可申事


 「村立見隠」とは何のことかよくわからないが、「火除け風除け」になるからなるべく伐らせるなといっている。また、寛政元年(1789)に出版された宮永正運の「私家農業談」には、「屋敷廻に木を栽るに多徳あり」として、@風寒を防ぐA盗賊の要心B類焼を防ぐC枝葉・落葉は薪となるD大きくなれば用材となるE落葉は田畑のこやしとなるなど、その効用を多くあげている。

 砺波市内のものでは、東開発の安藤家文書の中に天明2年(1782)の文書で年貢米を納めきれないので「かいね廻り」の内の大杉4本を売り渡しますという内容のものがある。この地方では「家は売ってもカイニョは売るな」との言葉があるが、この文書は実際に借金の方に屋敷林のスギを売り渡すこともあったという実例である。

 太田の金子文書の中にも年貢米を払え切れない百姓が催促されて「暫ク十日斗リ、垣根之杉、頭ヨリ十本ばかり見当として」待ってほしい、それでも払えなかったら伐っていただいても結構です、という内容のものがある。


【砺波散村地域研究所 『砺波平野の屋敷林』平成8年より抜粋】

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