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十村安藤家の多門

2013.5.22

加賀藩十村役の豪壮な門

十村安藤家の多門

十村安藤家の多門

この地方の民家の多門としてはもっとも古い門です。

安藤家は砺波郡宮丸村に住し、初代次郎左衛門の寛永12年(1635)から10代次郎四郎の明治4年(1871)まで、236年間にわたって砺波郡の十村役を勤めました。その間、改作法の始まった承応2年(1653)から幕末まで、無組御扶持人十村として、川合、田中、石崎家などとともに砺波郡の十村を統轄する最高位にあった家柄です。

県内最古クラスの多門
十村安藤家の多門

十村安藤家の多門

屋敷は約4ヘクタールで濠をめぐらせ、正面にこの多門がありました。明治22年、金沢へ移住したあと、多門は隣村小杉の雄川家へ移され、昭和48年に薮田嘉一氏によって現地へ移築されました。

タモンは長屋門の一種で、両袖に納屋があり、それをつないだ屋根の下に梁を冠木で受けて門とした構造となっています。納屋は番所や農具置場として利用されました。この地方の農家では一種のステータスとして建てられました。

安藤家の多門は間口7間半(14.3m、門部分2間、納屋は左方2間と右方3間半)、梁間2間(3.64m)、軒高1.5間(2.85m)。もとは茅葺でしたが、現地へ移築の際、瓦葺きに改められました。柱は档材で、割って木取りをする古い手法が用いられています。ヌキには元文3年(1738)に藩の役人の家来17人を周辺の村役人宅へ分宿させた覚えが墨書されていました。恐らく17世紀末の建築とみられ、県内の多門では最古の部類であろうと思われます。

<参考文献>
佐伯安一 1973『十村役安藤家と多門』

「多門」と「田門」のちがい

デジタル大辞泉(http://kotobank.jp/word/多門)には「多門」を次のように解説されています。

城の石垣の上に築いた長屋造りの建物。兵器庫と防壁を兼ねる。松永久秀が大和国佐保山に築いた多聞城の形式からの名という。多聞櫓(やぐら)
本宅周囲に建てた長屋。
江戸城中の御殿女中が使った下女2の所へこれらの女たちを置き、用事のあるときに「多門、多門」と呼んだところからこの名があるという。御端(おはした)

 安藤家をはじめ、砺波地方の農家住宅にはしばしば多門が見られますがそれは上記の「2」に当たるものです。

多門(たもん)…長屋門の一種で、両側に納屋があり、それをつないだ屋根の下に梁を冠木で受けて門とした構造。納屋は番所や農具置き場として利用された。

 民俗学の世界では多門は農機具庫としての機能があるなど、水田農業との関わりが深いことから以前は「田門」と表記していた時期もありましたが、近年では佐伯安一氏なども一般的に通用する「多門」を使う傾向にあります。

加賀藩における十村について

「ふるさと学芸員の小窓」から拝借。

十村(とむら)…加賀藩から出された農政制度。数十か村を統括する農民身分の最高職。武士の特権である苗字帯刀を許されることもあった。加賀藩や富山藩の農政実務全般を担当し、毎年の年貢微収や洪水その他災害への対処、新田開発の促進に主導的役割を果たした。また、地域農村の事情に明るい名望家であり、犯罪の取り締まりや藩と組下農民との関係調査など、地域社会の保全にも貢献した。

所在地
〒939-1358
 砺波市木下107
アクセス
砺波ICから車で10分