午飯岡碑
2014.11.26
木曾義仲がランチを食べた場所
午飯岡碑
■午飯岡碑(ひるがおかひ)・砺波市小島
砺波で木曽義仲といえば、「火牛の計で倶利伽羅合戦に勝利した武将」でお馴染みであるが、小島には、その義仲が午飯(ひるいいと読み、ひるめしのこと)を食べたと言い伝えられている場所がある。高さ2m、面積約50uの小高い石塚だったが圃場整備事業の際に取り壊され、石碑のみが元の位置から約200m東に離れた現在地に移築された。
1183年(寿永2年)木曽で兵を挙げて京を目指していた義仲は、五万の軍勢を引きつれて般若野から砺波山へと向かった。ちょうど昼ごろ小島を通りかかり、少し小高い岡をみつけ午飯にした。一息入れた後、西宮森の川田八幡宮で戦勝祈願をして倶利伽羅山の合戦にのぞんだといわれている。以来、このことを村の誇りとして伝承がある。
明治時代になって石に刻んで残そうという機運が盛り上がり、小島出身の歴史家石崎謙氏に碑文を以来してこの石碑が建てられた。
木曽義仲ってどんな人?
1154(久寿元)年−1184(寿永3)年
木曽の山中で育つ
義仲は源氏の武将、源義賢(よしたか)の二男に生まれました。義仲は、後に鎌倉幕府を開く源頼朝のいとこです。
義仲が2歳のとき、父が頼朝の子に不意討され、信濃国(長野県)の木曽谷を支配する仲原兼遠のもとに預けられました。13歳で元服し「木曽義仲」と呼ばれるようになりました。
火牛の計で大軍を破る
京の都では源氏と対立する平氏が政治の権力を握っていましたが、権力が強くなり過ぎた平氏に対する不満も高まっていました。
26歳の義仲は地方の人々の幸せを強く願い、平氏を倒すため兵を挙げ、信濃から越後国(新潟県)を経て、越中国(富山県)に攻め込みました。これに対して平維盛(これもり)の軍勢は、加賀国(石川県)から越中に入り、両軍は倶利伽羅(くりから)で戦うことになりました。
「源平盛衰記」によると義仲は平氏が眠っているすきに、角にたいまつを付けたたくさんの牛を先頭に攻撃を仕掛けました。これが「火牛(かぎゅう)の計」と呼ばれる作戦です。戦いは義仲の大勝利となりました。
義仲は京に入って平氏を追い払い、征夷大将軍となって「朝日将軍」と呼ばれました。
※【征夷大将軍】武士をまとめる最高の位を意味します。この位を与えられた源頼朝は鎌倉幕府を開きました。
『ふるさととやまの人物ものがたり』H23.富山県教育委員会/発行 より