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石崎謙碑

2014.8.18

富山県分県運動の先駆者

石崎謙碑

石崎謙碑

平成23126登録

小島自治会(砺波市小島 小島神社境内)

 
石埼謙は天保十一年(1840)に現在の砺波市小島に生まれました。幼少の頃から漢籍・医学・儒学と広く学問を修め、学制が施行されると自宅を小学校舎として開放するなど、教育の発展にも積極的でした。また富山県の分県運動にも大きく関わった人物として知られます。

廃藩置県後、富山県は石川県と統合され、様々な不都合がありました。そこで明治十四年(1881)当時東京で司法省にいた石埼は、分県を訴えた建白書を作成し、元老院に提出しました。翌年、石埼とは別に米沢紋三郎らも建白書を提出し、それから一年を経たずして分県が実現しています。これだけスピーディーに成就できたのは、石埼の穏健かつ理を尽くした請願運動があったからでしょう。

退官後、金沢藩史の編纂に携わり、晩年は郷里に戻って子弟の教育にあたりました。死後、師三島毅が建立した石碑には生い立ちや業績に加え、優れた学問の才を称えその死を悼む漢詩も刻まれています。石埼は、明治の近代化を支えた一人として今も地元で顕彰されています。