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庄川の軌道を歩く 前編

2013.12.26

その昔、庄川沿いを小牧ダムまで電車が走っていました。

水記念公園にある浅野総一郎像

水記念公園にある浅野総一郎像

大正15年から昭和13年までの13年間、庄川町青島から小牧ダムまで、小牧ダムの建設のために工事の資材などを運ぶ、木材を運搬する鉄道が走っていました。さらに、観光用としても利用されかつての庄川は賑わいをみせていました。


庄川の発電計画

豊富な水量を誇る庄川は、藩政期より庄川の流水を利用した上流地域からの流送が行われていました。明治期に入り、山林での伐木が自由になると、庄川の山間部からの出口にある青島村は、飛騨・五箇山方面からの木材運送の中継地として発達しました。
大正4年7月、中越鉄道(現JR城端線)、砺波軽便鉄道(のちの加越能鉄道)が開通し、青島町駅は庄川流域の木材集散地としての地位が不動のものとなりました。
その一方で、豊富な水量を誇る庄川は水力発電の適地としても注目され、明治後半からいくつもの発電計画が立案されていました。第1次世界大戦に伴う好景気により、産業界が未曾有の活況に入り、富山県出身の実業家浅野総一郎はかねてより着眼していた庄川流域での発電事業計画をすすめました。
大正5年5月に、浅野総一郎が庄川の水利利用を出願し、浅野総一郎の当初の計画では、庄川流域の藤橋、大橋に発電所を建設して、その発生電力を伏木港付近に建設予定の変電所へ送電し、同港周辺に形成されつつあった伏木港工業地帯のセメント・電気製鉄他の製造工場への送電を目論みました。さらに、浅野総一郎が別に構想していた高岡-伏木間の運河=「高伏運河」開削計画が実現した場合、運河両岸へ立地される新設工場の電力需要に応えるものでした。
大正8年1月には、水利権が許可され、10月、浅野総一郎は庄川水力電気株式会社を設立しました。 資本金1000万円で、庄川水電の総株数20万株のうち、過半数14万株は浅野同族株式会社の持株でした。

庄川水力電気専用鉄道の建設
電車橋梁工事

電車橋梁工事

庄川水電はまず、藤橋地点へのダム式発電所建設を決定し、続いて資材運搬用として専用鉄道の敷設を計画しました。
大正8年12月、加越能鉄道青島町駅−藤橋間の専用鉄道敷設免許申請を提出し、大正9年10月、敷設免許が下付されました。大正11年7月に、発電工事計画変更及び工事認可を取得しましたが、藤橋・大橋の両地点はダム建設には不適で、両地点の中間にあたる小牧が技術・経済上有利であるとの結論を得て、当初の計画を変更することになりました。そこで、12月、鉄道敷設工事「工事方法変更認可申請」を提出、4月10日に着手されていた専用鉄道の敷設工事は、工事半ばで工事場引込線を新堰堤位置に至る線路に変更することを余儀なくされました。

大正12年6月には、工事の認可を得ましたが、大戦後の不況や関東大震災により、会社の資金調達が不能となり、やむなく発電所工事は中止になりました。専用鉄道の工事も大正13年9月の時点では、まだ、青島町駅より一里(約1.6キロ)地点までの線路しか敷かれておらず、残る区間も用地買収の出来ない部分が3割も残っていた。このため、発電工事の施工と資金調達は大口需要家である、当時の日本電力(株)が引き継ぐこととなりました。

大正14年1月、浅野側は庄川水電株の相当数を日本電力(株)に譲渡して庄川水電は日本電力の系列下に入りました。日本電力(株)は地元への電力供給を主目的とした当初の送電計画を変更して、同社の送電系統の一部へ組み入れると同時に設計自体にも改良を加え変更しました。
4月、鉄道敷設工事が再開し、小牧ダムの工事が本格的に開始されました。12月、青島町―小牧作業場の区間(約4.74キロ)の専用鉄道および、庄川下流への砂利採集線が竣工し、大正15年1月には認可が下り、資材輸送を開始しました。開通当初は全線が非電化で蒸気機関車三両と無蓋貨車五両での運行となりました。

青島町―小牧間の中間駅に青島作業場(ヤード)が設置され、青島作業場は運輸事務所や機関庫を備えた専用鉄道の中枢で、セメント等の資材倉庫が設けられた工事資材の一大集散地でした。また、砂利採集線の分岐点でもありました。

大正15年5月、輸送力増強のため、青島町―小牧間の電化工事を計画し、電化工事が認可されました。大正15年6月、電化工事竣工し、電気機関車四両による運行開始、蒸気機関車は砂利採掘線で使用しました。

加越線ポイント事件による砂利線の延長と庄川流木事件
加越線の貯木場引込線

加越線の貯木場引込線

小牧ダム工事に使用されるセメントは、伏木港で船から貨車に積み換えられて氷見・城端線経由で福野駅に達し、そこから加越鉄道で青島町駅まで輸送の上、庄川水電の専用鉄道にバトンタッチされていました。この輸送によって加越鉄道に入る運賃は一日当たり90円、1か月で2700円と大きな稼ぎでした。

大正15年11月、加越鉄道は青島町駅構内での専用鉄道貨車連絡契約を解除して、加越鉄道と専用鉄道とを結ぶポイントを施錠し、専用鉄道への貨車連絡を不可能にしました。 専用線への貸車出入場料の支払いが数日遅れたことが口実でした。主導権争いが続いていた加越鉄道の経営権を掌握した平野増吉が代表を務める飛州木材(株)により、木材流送の「流木権」がダム建設により侵害されるとして、対立関係となりました。
庄川水電はそれまで国鉄-加越能鉄道経由で貨車を直接乗り入れていましたができなくなりました。このため、青島町まで運んだセメントや資材をいったん貨車から下ろして青島ヤードまで車馬輸送の上、再び専用鉄道に積み替える手間が生じ、資材輸送は労力・金銭的に大きな打撃をうけました。庄川水電は鉄道省に提訴し、鉄道省は両社の調停を試みましたが、加越鉄道側は木材輸送を阻むダム工事に便宜を図ることはできないとして応じませんでした。青島ヤードから城端線出町駅までの専用鉄道延長を計画しましたが、飛州木材は要所にあたる土地を事前に買収し、計画を妨害しました。コンクリート打設用骨材として使用する川砂利需要の増大に応えるため、建設を検討していた柳瀬村への砂利採集線延長計画に着目し、この路線を資材輸送の予備的経路としての要素を加味して建設することを決定しました。

工事資材を中越線出町駅から車馬輸送で柳瀬駅から専用鉄道で小牧まで貨車運搬を計り、昭和2年8月、青島ヤード‐柳瀬村間(約8.3キロ)の「専用鉄道免許申請」を提出し、12月、免許を取得しました。昭和3年8月、青島ヤード‐柳瀬村(開発第2号砂利積込場)間工事が完成し、9月、青島ヤード‐柳瀬村間の運輸を正式に開始しました。
しかし、開業4か月前の昭和3年5月、庄川水電と加越鉄道側の一部重役との和解が成立し、ポイント事件は解決しており、青島町駅での貨車連絡が再開されたため、せっかく開業した柳瀬村までの延長線は砂利運搬以外には利用されませんでした。
昭和4年2月には、柳瀬村―太田村間が廃止、昭和7年4月、太田村―青島ヤード間が廃止となり、幻の軌道となったのです。

小牧ダムの建設は、電力の発生や河川水量の調節が可能になる等の利点がある一方で、従来からの庄川の水量を利用して運搬された木材の売買や、その製材・加工などを生活の糧にしていた人々にとって、庄川をせき止めるダムの建設は大きな衝撃となりました。
大正15年5月には、飛州木材(株)がダムにより「流木権」が侵害されるとして、富山県知事を相手に「小牧堰堤工事実施設計許可取消請求」の行政訴訟を申請しました。大正15年10月には、飛州木材(株)が堰堤工事禁止の仮処分を申請し、飛州木材と庄川水電の対立は全面戦争の形となりました。これが流木事件のはじまりとなりました。
昭和4年末には、小牧ダム工事がほぼ終了していましたが、昭和5年4月飛州木材の申し立てにより、工事禁止の仮処分が執行されました。しかし、昭和5年7、 飛州木材の仮処分は取消となり、昭和5年9月、仮処分取消への控訴及び、行政裁判上の仮処分申請も却下、飛州木材敗訴となりました。これにより、昭和5年9月、小牧ダムの湛水が始まり、昭和5年11月には発電を開始しました。


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