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E素麺組合の発展

2014.5.27

素麺組合の発展

(イ)組合組織の拡張 

 明治四十四年組合を設立して以来十有余年間、一意専心大門素麺の改良に尽力したる結果、需要者の信用を得、素麺の需要は年々増加し、到底組合員の産額にては大門素麺の需要を充たすこと能わざるに至れり。

 よってますます組合員に素麺の製造を奨励すると同時に、区域を拡張し、本郡内ことに荘川(庄川)流域の各村中、庄下村、太田村、北般若村、油田村、中野村、青島村、山野村、種田村、出町太郎丸の九ヶ町村をもって区域となし、大門素麺の名を借りて製造する者をもって組合員たるべき特殊の産業組合を設立し、もって組合制裁の下に厳格なる素麺検査を実行し、その生産する素麺を改良統一し需要者の嗜好を充たさんがため、大正十四年一月十日県の認可を得て特殊産業組合を作り組織の拡張を行った。


(ロ)本組合の区域と大門素麺の関係

 大門素麺は嘉永年代農家の冬期副業として、本郡内大門の郷に創始せられしより尓来百数十年、その間本郡内処々より農家の壮丁は雇用あるいは見習いとして入り来り、素麺の製法を習得して斯業を開始するもの数多くあるに至れり。
 
 就中本組合の区域に係る各村は、荘川(庄川)の上流に位し風気清澄にして乾燥し、加うるに八乙女山より吹き下ろす朝嵐は颯々として実に天与の素麺日和を得るの地にて、ことに毎年十二月、一月、二月の三ヶ月は最も素麺に好適し、雄神川(庄川)水源は一大自然の上水をなし、一点の雑滓物を混ぜず清浄鏡の如く、越路の積雪は立山の旭日に晴れわたり、四眸玲瓏たる銀世界の中において、素麺を製造し得るがゆえに本組合の区域となせり。


(ハ)組合設立後の施設方針

 組合設立後はただちに素麺製造者の団体となりたるにより、従前より一層麺業の施設に付き組合員は円満に結束を固むることを得るに至れり。よって大正十五年一月総会において、大門素麺の将来に対しますます発展を期せんがために、組合員の実行事項を議定し漸進的に実行しつつあり。


(ニ)組合員の実行事項

〇時勢の進軍に応じ文化的に製品を改良するため大正十五年度産より組合員一戸に付きその生産額の三分の一以上は必ず切素麺を製造すること。

〇原料小麦は科学的に美味滋養豊富なるものを選択するの目的により、ただ買入品のみによらず各組合員は家庭の労力その他事情の許す限り、耕作地の三割まで稲作の裏作として小麦を栽培し、優美なる原料の自給を計ること。

〇組合の施設機関として本組合の区域を六小区に区分するものとす。
・第一区庄下村  ・第二区北般若村  ・第三区太田村  ・第四区中野村、青島村  ・第五区山野村、種田村  ・第六区出町、油田村


(ホ)庄下村農業協同組合へ合併

 戦後食料不足のため、素麺の原料である小麦等の入手が困難になったこと、その他経済界の不安定が起因して、素麺製造農家が減少したので、昭和二十五年十月一日をもって、資産全部を庄下村農業協同組合に譲り組合を解散し庄下村農業協同組合の素麺部として、特別会計でこの事業を継承することとなりました。


【庄下村誌編纂委員会『庄下村史誌』より抜粋】