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A−3酒造りの歴史

2014.6.24

(2)江戸時代の酒造業

3.江戸時代の酒の値段について(天保年間以降)




 酒の値段には中勘値段と本勘値段とがあった。中勘値段はその年の7月・8月・9月の米平均値段を基にして、毎年10月から11月に決められ、本勘値段は同年の10月・11月・12月の米平均値段を基にして、翌年正月に取り決められた。正月3日まで中勘値段で売り出し、それ以降は重ねて本勘値段が申渡された。値段の決定は郡奉行所が申渡した。まず酒造人が酒値段を見図り、十村宛に願い出る。願書を町役人(算用聞・肝煎・組合頭)と十村が取り調べ、奥書して郡奉行所に提出する。郡奉行所が酒値段を申渡す。それに対して、酒造人が請書を出すというものであった。酒造人は取り決め値段を店先に貼り出し、値段違いの酒を売り出さないこと、桝目も定めの通りにして売り出すこと、別造りなどをしないことを誓い、酒の売値段を請け合った。このようにして、酒値段は酒造人が年に2回群奉行所に願い出、御定め値段が申渡された。

 酒値段は、町によって異なっていた。天保11年(1840)正月晦日付郡奉行所よりの申渡書により当年の酒1升の本勘値段をみると、杉木新町、井波町、福野町は142文、戸出村・津沢町が143文、立野町・三日市村・埴生村・福町村が145文、福光村・福光新町が146文であった。また弘化4年(1847)10月10日決定の酒1升の中勘値段は、井波町・福野町・立野町・三日市村・埴生村・福町村は140文であった。安政2年(1855)12月20日付の史料によると、酒1升の中勘値段は杉木新町・井波町が123文、福野町・埴生村・三日市村が116文であった。

表2は井波町肝煎文書の中から
表2井波町の酒値段

表2井波町の酒値段

 表2は井波町肝煎文書の中から酒1升の値段を酒造人からの願い出(表2では願書と記す)、郡奉行所よりの申渡し(同申渡書と記す)、酒造人の請合いと同時期の米1升の値段も併記した。

 酒1升の値段は中勘値段が米2升3合分の値段を見図って取り決められた。これは天保元年(1830)の申渡しで、それ以前は中勘値段は玄米2升の割合、本勘値段は玄米2升2合の割合をもって取り決めていた(文化12年4月25日の郡奉行所申渡しによる)が、この年各々1合宛の増しを申渡した。天保元年11月の郡奉行所の申渡しには「文化年中取極申渡置候直段仕立方ニ米壱合代増方承届遣候、依而中勘・本勘共右増方を以酒直段取極候」とある。酒造人は既に文政13年(1830)3月に、御郡方も金沢表の征合を以て酒値段を取り決められたいとして、中勘値段は米2升2合の割合、本勘値段は米2升4合の割合を以て聞届けられたいと願い出ていた。それに対して、米2升1合及び米2升3合の値段が酒の1升値段となったわけである。その後天保15年(1844)正月27日には、酒本勘値段は、「兼而御取極之通十月より十二月迄米価平均弐升三合懸を以御取理可被仰渡義ニ御座候所」、米価が下値なので1作2升4合の征を以て取り決められたいと願い出、その値段を請け合っている。弘化2年(1845)正月の本勘値段の願い出に対しても米2升4合懸が聞き届けられた。

 しかし、酒の値段決めには値段増願いが聞き届けられない年が多かった。弘化2年10月22日は中勘値段に2升2合懸が聞き届けられなかった。弘化3年10月27日の酒中勘値段願書では132文に6〜7文の増値段を願い出たが131文の申渡しであった。嘉永元年(1848)10月には中勘値段に2升2合懸を願い出たが、心得違いにつき米2升1合売の願書の提出を命じている。嘉永2年10月の中勘値段願書では、先年は出来(百姓方売出米)のみを買い入れてきたが、近年は出来が少なく町蔵米を買い入れている。その上薪など諸品高値、日雇人足賃も増えているとして、当1作2升2合で増をかけ、143文の値段を願い出たが、藩は2升1合懸とし、7月・8月・9月の米相場平均で133文に決まった。このように、安政4年(1857)2月までの中勘値段及び本勘値段取り決め願書をみると、いずれも増値段を願い出ているが、藩は「仕法通りの取極」を申渡し、臨時増方の義は聞き届け難いとしている(表2参照)。

 また酒値段は天保10年(1839)12月8日付の史料によると、今後は出米相場と町蔵米相場の平均で見図るのを止め、以前の通り出米相場の平均で見図ることになったとある。史料よりみると町蔵米相場より出米相場は下値であった。その後、安政4年(1857)10月に酒造人は町蔵米相場で酒値段を仰せ付けられたいと願い出た。それに対して藩は、同年11月に、出米相場と町蔵米相場の平均で見図るよう申し渡したが、その年の春に酒値段を取り決める米の征合を改めていた。すなわち、酒1升の中勘値段は玄米2升1合懸のうち3合の減らし方が仰せ渡され、米2升懸での値段取り決めを申渡した。酒造人はこの申渡しに再三に渡って反対しているが、安政4年12月から後の酒値段取り決め願書は皆この規則に則って作成されている。

安政7年に酒造人は
申渡し

申渡し

 安政7年に酒造人はこの申渡しにこぞって反対した。そして文久3年(1863)9月になってこのままでは「迚茂利潤も無御座候、商売稼ニ相成不申ニ付」、以前の征合通り中勘値段は2升1合縣、本勘値段は2升3合の割合を聞き届けられたいと重ねて嘆願している。井波町の酒造人6名、福光村3名、福光新町2名、福野町4名、津沢町1名、杉木新町2名、戸出村2名、福町村3名、中田村2名、三郎丸村1名の砺波郡酒造人26名の連名だあった。それに対して同年10月、郡奉行所は詮議の上、安政4年に3合宛減じた所を2合宛の増しとし、改めて中勘値段は玄米2升代、本勘値段は玄米2升2合代の征合にて仕立てたる様に、また出米併町蔵米相場平均の義は指し止め、以前の通り出米相場をもって仕立てる様申渡した。




図2は中勘値段・本勘値段ともに

図2は中勘値段・本勘値段ともに表2の請書値段の数値から酒1升の値段の動きを見たものである。井波町肝煎文書には郡奉行所の値段取り決めの申渡しに対する請書が多く残されているので、酒値段の動きが追跡できる米値段は日によって異なっており、願い出て取り決められた。図2では表2の米値段のうち、各年1月・2月の米値段を採った。

 図2をみると、酒値段は米値段に連動していることがわかる。米値段の2倍前後の値段となっている。安政4年から同6年、万延元年(1860)と慶応元年から同3年が2倍にはならないが、ほかの年の酒値段は米値段の2倍を超している。米値段が下落したのか、嘉永7年や安政3年のように本勘値段が中勘値段に及ばない年もあるが、一般に酒の中勘値段は本勘値段より下値であることもわかる。天保11年(1840)正月晦日付の史料には「酒本勘値段ニ者年内中勘値段ニ米弐合之縣相増候」とある。天保年代以降は酒の中勘・本勘値段は100文から150文の間を上下しているが、天保8年2月には米値段も364文に上昇した。天保7年(1836)は凶作の年であった。幕末の米・酒値段はともに高騰している。米の値段をみると、元治2年(1865)に112文、慶応2年(1866)に235文、同3年に350文、同4年に210文とある。酒の中勘値段は元治元年に211文、慶応元年に366文、同2年に510文
同3年に556文となっている。また本勘値段は元治2年に232文、慶応2年に435文、同3年に664文、同4年には550文である。この頃は天保8年(1837)のように酒値段の騰貴が単年ではなく、400文を超える高値となっており、それが何年も続いているのが、特徴といえる。

 酒値段が騰貴している状況下での値段取り決めまでの経緯は、この間が請書のみで願書や申渡書が残っていないのでよくわからない。慶応2年(1866)2月の本勘値段取り決めの請書には「酒造本勘去十月余十二月中迄之出来三ケ月書上之表を似御取調理、当出御役所御詮義之上平均之内一作減法被仰付、右之通酒壱升値段御取極、此上直段違高之酒曽而売出候義不相成」とある。

註 本文の作成は井波町肝煎文書に依った。
(今村 郁子)




【砺波郷土資料館『砺波野が育んだ地酒』1995年より抜粋】