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B砺波野の酒蔵

2014.6.24

砺波野の酒蔵

この砺波地方で酒造りが行われたのはいつ頃からのことか、はっきりしたことはわからない。最も古い文書史料といえるのは、元禄6年(1693)の城端の「組中人々手前品々覚帳」で、ここに城端町の6名の酒造人の名が記されている。そしてその後ほぼ砺波郡全域の酒造人の名がみえるのは文政13年(1830)の川合文書である(『砺波市史』第二巻所収)。

 井波と戸出がそれぞれ5人、福野・福光・福光新町などの在郷町に合計27軒の酒造屋があったことがわかる。ただしこの史料郡奉行支配の町村だけで町奉行支配の城端と今石動は記されていない。その後、幕末の慶応2年(1866)には今石動に6軒、城端に7軒、郡方に28軒、合計41軒であった。文政13年と比べると郡方で1軒増え、城端では元禄6年と比べても1軒増えているだけなので、酒造株制度のために少なくとも元禄期から幕末にいたるまで、砺波郡全体としては大きな変化はないのではないかと思われる。

 明治4年に江戸時代の鑑札を没収し、新たな収税方法規則が公布され、『酒造免許制度』となった。明治4年の「酒造人願書』(富山大学蔵 菊池文書)によると、郡方だけであるが27名の名が記されるので、幕末とほとんど変わらないことがわかる。その後命じ37年度の酒造人名簿(『富山県史史料編Y」所収)によると、39名となる。ここまでほとんどその数に変わりはない。

 しかし、その後大正9年恐慌的不況のため、全国的に多くの酒造場が閉鎖された(砺波地方の実態は不明)。本格的な戦時体制に組み込まれる直前の昭和14年の砺波酒造組合員は23業者であった(福岡町 酒井宏氏蔵文書)。昭和15年には原料米が国家管理となり、昭和18年には国家統制による合併が行われた。23業者が6から7場で醸造するにすぎなくなったようである。しかし、戦後22から25年頃までには多くの業者がそれぞれ復活し、昭和30年代には再び20業者に戻っている。

 ところが、その後まもなく30年代末から次々と連続蒸米機やもろみの連続絞り機などの機械が開発され、大手のメーカーはこれらの設備を備えて一躍生産力を高めた。そうなると小規模業者は販売数量の低下と製造原価の上昇をきたし、40から50年代にかけて酒蔵は次々と閉鎖されることになった。そして現在8業者を残すのみとなっている。
(安ヵ川 恵子)



【砺波郷土資料館『砺波野が育んだ地酒』1995年より抜粋】