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T−C原始・古代の日本『家持と志留志』4・5

2014.9.4

4東大寺の荘園

模式図 東大寺領野地墾田地図

模式図 東大寺領野地墾田地図

 743年(天平15)10月、聖武天皇は大仏建立の詔を出された。そして大仏完成後の東大寺経営の基盤をつくるため、各地に東大寺の墾田地を占定することになった。749年、越中にも東大寺占墾地(せんこんち)使の平栄らが来てその占定に当たった。その後の開田のようすは、10年後に図籍をつかて一たん報告された。そしてさらに767年11月には専当国司利波志留志が地図をつけて墾田地の状況を報告している。これによって当時の越中国における東大寺荘園の開田状況がわかる。当時、砺波郡、射水郡にそれぞれ4か所、新川郡に2か所荘園があったが、その中で砺波郡の同寺荘園の開発が進んでいたようすがうかがえる。さて、砺波郡の墾田地(荘園)は4か所で、その位置を図示すると左図のようになる。

○杵名蛭(きなひる)庄は井波町今里、川原崎、戸板あたりとされ、北には公民の口分田があったので、砺波でも761年までに班田が行われるようになっていたことがわかる。

○井山(いやま)庄は雄神橋から三谷までの地域で、次の伊加流伎庄と同様、現在の庄川本流の下も含むと考えられる。

○伊加流伎(いかるぎ)庄は現庄川の河床も含むその西側で、柳瀬、下中条方面にあったと考えられる。溝(用水)がないので開田率も低い。12世紀には狩城庄として文書に見える。

○石粟庄は芹谷野段丘の下に広がる庄東平野の一部で、東般若地区の東保から高岡市中田町今泉のあたりであろう。ここは橘奈良麻呂の所有地であったが、彼が藤原仲麻呂の打倒に失敗して没収され、政府があらためて東大寺へ施入(移管)した荘園である。

 8世紀頃の東大寺荘園地図に記されている砺波地方の墾田占有者は、中央官人と皇族で、地元豪族では砺波臣志留志と蝮部千対とがある。

橘奈良麻呂−石栗村に。大原真人麿(天武天皇系の貴族)−伊加流伎野の西に。後、この地は恵美比多比(えみのひたい)の土地になる。門部王(かどべのきみ)(真人麿の弟)−井山村墾田の西に。
利波臣志留志−伊加流伎野の南に。後、これが井山庄になる。
蝮部千対−井山村墾田の南に。

5平安の三郷・三社

 平安初期になってようやく、扇央部の微高地にそった低湿地帯に小規模な農耕が営まれ、集落が形成されて郷(ごう)という行政単位も生まれ、また地域の崇敬をあつめる神社もあらわれる。その祖先神崇拝の拠所として神社が設けられる郷もでてきたようである。全国66か国のうち、郷の数は、和名鈔(わみょうしょう)によると3800郷が記載されている。うち越中国には42郷あって、砺波郡には12郷がある。このうち砺波市内の郷と考えられるものは次の3郷である。

大野郷
中世の般若野庄の一部で井山庄も含む地域。

陽知郷(やちのごう)
陽知は谷内(やち)のこと。市内の中尾・井栗谷を通り、三谷のあたりで庄川に落ちる谷内川と関連する地域。

拝師郷(はやしのごう)
市内林を含む地域。林に式内社林神社があり古代豪族林氏が住んだという。

 また、平安時代初期に編纂された延喜式(えんぎしき)の神名帳(じんみょうちょう)に全国でおよそ3000社が記載されている。

 この神社のことを式内社という。このうち、砺波郡のものは次の7座である。

 高瀬神社、雄神神社、林神社、比売(ひめ)神社、浅井神社、長岡神社、荊波(やぶなみ)神社。

このうち市内の神社とされるのは、林・比売・荊波の3社であるが、その現在地決定には異説=論社(ろんじゃ)という=があるので確言はできない。

林神社
祭神は道臣命(みちのおみのみこと)加賀国の氏族。和名鈔の拝師郷の社であるという。古代から中世にかけてここに豪族林氏がいた。論社に市内頼成(らんじょう)の林神社がある。

比売神社
柳瀬の比売神社、または下中条の比売神社、これは正徳2年(1712)社号帳によるもの で、論社として子撫川流域の宮嶋郷の比売神社がある。

荊波神社
家持の夜夫奈美の里の歌で有名。天平宝字3年(757)の「東大寺開田図」のうちの「石粟村館施入(せにゅう)田地図」と神護景雲元年(767)の「砺波郡井山村墾田地図」の中に「荊波神田」が記載されているので、市内池原(いけのはら)の荊波神社とする説が有力である。祭神が古事記にいう利波臣氏の祖先、日多治比部氏ゆかりの神社とも考えられる。
論社はほかに2社ある。
福光町岩木の荊波神社  この神社の本殿の地が志留志の古墳だという伝承があること、同村の田圃から「荊波領」と刻まれた石碑の破片が出土したことから主張されている。
小矢部市臼谷の八幡宮 往古に荊波神社と称した。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】