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V−@近世の砺波『農村支配のしくみ』1・2

2014.9.4

1前田氏の支配

前田利長肖像画 魚津市友道 高畠定盛氏蔵

前田利長肖像画 魚津市友道 高畠定盛氏蔵

 1585年(天正13)は、砺波の地にとって、時代の流れを大きく変えるできごとが起きた年であった。一つは砺波郡が前田氏の領有になったこと。いま一つは大地震のために庄川の河道の一部が東に移り、庄川が安定し、川跡の開発の基盤ができたことである。

 前田氏が砺波郡を支配した初めのころは、豊臣秀吉の全国平定によって、新しい封建社会の基礎が固まった時代であった。秀吉は農民支配のために、刀狩りと検地とを行なった。刀狩りは1588年(大正16)方広寺造営の金具に利用するという口実で、農民の刀を没収したものである。これによって、武士は武士、農民は農民というように身分がはっきりと区別されることになった。検地は、田畑の面積を測り、とれ高やそこを耕作する農民をきめた。農民は耕作する権利が認められたが、領主はそこからうまれるとれ高を正確に把握することとなった。前田氏が砺波郡を支配してから、随時検地をすすめたが1605年(慶長10)改めて総検地を行なった。この慶長の総検地の結果が、後で述べる改作法の執行まで長く村高の基準となった。

 また、このころの農民には、年貢とともに夫役(ぶやく)が課せられた。築城や道路・橋の普請をはじめ、荷物の運搬・電馬等の労役に服さねばならなかった。これが夫役で、家高(自立した高持百姓の数)に応じて、村別に割り当てられた。1609年(慶長14)、高岡城の築城にはおびただしい数の夫役の徴発があった。飛騨や五ケ山で伐り出した材木を庄川(旧千保川)へ流して高岡へ運んだが、この労務も夫役でまかなわれた。後に、夫役は農事の妨げになるとして、お金で納めるようになった。

2改作法と田地割「改作法」
寛文10年 山役・野役の分布

寛文10年 山役・野役の分布

 藩政の初期には、中世以来の慣習で藩士が自分に与えられた知行地から年貢米を徴収していた。藩士はそれぞれ代官を村へつかわして、年貢米を農民から直接に取りたてていた。こうして藩士と農民が直接に接触していたので、藩士は少しでも多くとりたてようとし、農民は何かと理由をつけて、年貢を少なくしようとした。3代藩主利常が、こうした弊害を除くために考えたのが改作法である。改作法というのは、はじめのころは「開作」とも書き、田を開いて農地に精を出すことであった。1651年(慶安4)に着手して、5年後の明暦元年に一応の達成をみた。

 この改作法は「一に加賀、二に土佐」とまでいわれ、他藩からもうらやましがられた農業政策であった。その大要は次のとおりである。@藩士が農民から直接年貢米をとるのをやめ、藩が一括して集め、藩士に与えることにした。A一村の草高(生産高)をきめ、毎年変えないことにした。B一村内でもまちまちだった免(税率)をならして一村平均免とし、さらにこれを永久定免とし、毎年変えないことにした。そのため、不作の年には米を藩から貸与し、とれた年に返させることにした。C年貢を納めるのを「村」の共同責任とした。D十村の権限を強化し、勧農と納租行政をまかせた。

 これによって、農民は給人は毎年収入が安定することになった。一面、農民に対しては藩の力が直接及ぶことになり、藩士に対しては、棒禄を直接支給することによって、藩主と藩士との恩顧関係が強化された。一村の草高と免をきめ、これをしるした文書が各村へ交付された。藩主の印が押されているので、これを「村御印(むらごいん)」といった。この村御印には、草高・免と口米・夫銀・小物成が書きしるしてあった。これは、村としては一番大切にされてきた文書で、普段は御印箱に納めて肝煎の家の座敷などの天井からつるし、有事の際は真っ先に持ち出せるように配慮されていた。

 小物成とは、産物。産業などに対する租税である。たとえば、山村及び山麓の村々に課せられた山役・ろう役・うるし役・炭役などがそれである。山役はもっとも範囲が広く、大きかった。山役といっても木材は農民の自由にならなかったので、ここで山役の対象となったものは草刈場である。草は水田へ踏み込む草肥として、また牛馬の肥料として農業経営上欠くことのできないものであった。平野の村では野役・鮎川役・鮭役・鱒役などがあった。野役も基本的には草刈場である。主に庄川の扇状地に分布するので、庄川の旧分流跡の河原などの未開地が主であった。町方では、室屋役・紺屋役・油屋役・油役・鍛冶役などがある。砺波郡では、布役や絹役などが課されているが、これは明暦ごろでの郡の布(麻布)・絹の生産の様子を示すものである。

 村免は、山手が高くて平野の真ん中が低かった。井栗谷・別所のあたりが5つ(5割)台と高いのは草刈場としての山を持っていたからである。この村御印は、1656年(明暦2)に公布されたが、1670年(寛文10)に京桝の容量が変わったので、改めて公布された。

2改作法と田地割「田地割」
田地割のくじ取具

田地割のくじ取具

 田地割(でんちわり)は碁盤割ともいわれ、一村内の各自の耕作地を持高をかえずにくじで交換することである。これは、加賀藩の重要な農政の制度で明治の地租改正まで続けられた。

 この制度は改作法に先だって行なわれたが、その意図するところは改作法とまったく同じであった。つまり、従来一村内でも給人によりまちまちであった免を一村平均免にし、また毎年、見立てによってきめていたのを定免にするという改作法の実施のためには、石あたりの負担を公平にすることがまず必要であったからである。これが初めて実施されたのは1642年(寛永19)で、後には20年ごとに実施されることになっていたが、川流れなどで耕地に変動を生じた場合は、期限内でも実施された。しかし、改作法とちがって、その実施には藩は干渉せず、おおむね村の自治にまかせていた。

 田地割は一村単位であるが、村から藩に願い出て許可を得たうえで行なう。まず田畠・屋敷も含めて測量を行なうのであるが、これは不正がないように他村から頼んだ縄張人あるいは竿取人などを使って行なう。その際、田畠の良し悪しによって合盛(ごうもり)(年貢米の率)がきめられる。これをあらかじめ決めたくじ数にしたがって平均するように分ける。このくじを個人の持高に応じて1本ないし数本ひき、高の少ないものは数人一組で一本をひくのである。用水路や通路などの共同施設、苗代田や屋敷地は引地としてくじから除外された。このようにして、分配が行なわれると竿あげといって田地割の完了したことを宣言し、改作奉行に文書で報告した。

 この田地割制度によって、年貢の収納は一村全体の共同責任であることが明確にされた。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】