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V−@近世の砺波『農村支配のしくみ』3・4

2014.9.4

3十村制度

十村制度

十村制度

 藩は改作法を実施するために農政の組織を整備した。藩政のはじめのころから村々に肝煎・長百姓(おとなびゃくしょう)・組合頭などの村役人がおかれ、数十か村を一組として十村肝煎が任命されていた。身分は農民であったが、藩の下部機構として郡内を支配していた。改作法が実施にうつされる過程においては、各郡に奉行を派遣してこれに十村を協力させたのであるが、改作法がほぼでき上がるとその責任者として改作奉行が定められた。

 十村は藩と一般農民との中間にあって、改作法実施の際、藩の意志を農民に徹底させる任務をもっていた。さらに十村のなかから御扶持人十村が定められた。藩からいくらかの扶持を与えられたもので、これは農民の代表者に高い権威を与えて改作法が農民の納得の上で行われるようにするためであった。

 十村が制度としておかれたのは、1604年(慶長9)からといわれている。やがて1651年(慶長4)から明暦にかけて実施された改作法によって、十村が制度として完備されていった。そのころ砺波郡では平野部8組、五ケ山2組の10組で編成されていた。

 十村はもともと田地をたくさん持ち、身代も豊かなものの中から選ばれたのであるが、それに藩から強い保護と権力が与えられたので声望と権威はますます大きくなっていった。1693年(元禄6)の切高仕法(高の売買を認めた仕法)以後、地主としても成長していったところが、それにつれて実務をほとんど手代にまかせ、自身はぜいたくをして遊芸をたしなんだりするものが多くなったので、藩では1821年(文政4)、改作奉行と十村の廃止へ踏み切った。しかし、十村という中間機関を失ったので、政務はかえって渋滞し、この改革は効を奏せず、18年後の天保10年に再び「改作奉行−十村」ラインが復活した。この時、砺波郡でも十村組の編成替えがあり、平野部14組、五ケ山2組の16組となった。

4近世の村
安川七か村概図

安川七か村概図

 自治的なまとまりとしての「村」は、中世の末、荘園制が崩れるにつれて芽生えてくる。これは、中世のどのような基盤から生まれてきたものであるのか。一般的には荘園の崩壊にともなって、地域を同じくする家の群が、氏神のまつり・農作業・水利などを共同で行なう必要から共同体として成長した。一方、藩がこれを行政の末端単位として利用したので、近世へ入ってから急速に充実整備されてきたものである。さらに慶安のころから改作法が実施されて、年貢の納入の責任が村へ課せられ、いわゆる村御印が村毎に交付されることとなって、必然的に「村」の範囲が固定するようになった。

 この「村」が固定するまでの過程にいくつかの型がみられる。最も一般なのは、自然発生的な集落がそのまま近世村へ成長したものである。その2は、共同体として未成長ないくつかの小グループが隣接していて、それが寄り集まって一つの「村」を形成する型。安川・東保・太郎丸などがそれである。その3は、グループの範囲が大きすぎ、それが分割されて数か村になる型。油田が宮村・宮丸・三郎丸などの数か村に分かれた例がそれである。

 近世の村は、百姓を主体として構成される生活共同体であるといえる。百姓とは、高をもつ農民で高に応じて耕作する権利をもち、年貢や諸役を負担する義務を負った。そのため、村での発言力や席順は、持高の多い少ないによることが多かった。村を治める責任者は肝煎で、組合頭がこれを助けた。持高の大きいものを長百姓(おとなびゃくしょう)といい、肝煎や組合頭はこの中から選ばれることが多く、また常に村の相談役的な立場にあった。百姓惣代というのは、この層の人たちのことをいう。

 村の運営は村役人を中心として、村寄合によって行なわれた。年貢の皆済(かいさい)をはじめ、用水、道路などの普請、共有地や宮の管理、防災、火の番などが主な仕事で、労力をいるものは村総出や順番に出て行ない、かかった費用は村万雑によってまかなわれた。

 村御印は「村」を対象にして交付されたものであるが、これは村の持つ共同体的性格を利用して、年貢納入の連帯責任を負わせたものである。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

  • 十村組の区画

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