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V−C近世の砺波『杉木新町の成立と発展』

2014.9.4

1杉木新町の誕生

砺波平野の町

砺波平野の町

 1585年(天正13)、越中に入国した前田利長は、農業政策を進める一方、産業政策にも力を入れた。天正から慶長にかけて(1585〜1606)、北野の市(現城端町)や篠河(ささがわ)の市(現福岡町)、そして、立野の市(現高岡市)などを許可し、参加者を制限しない庶民の自由な交易を発展させようとした。元和・寛永のころ(1615〜1644)になると、街道が整備され、埴生(はにゅう)・福町・佐賀野・中田・戸出・大清水といった宿場町が生まれてきた。

 砺波平野にできた町を見てみると、城端・福光・井波・石動などの中世以前にできた町は、山麓にあり、杉木新町・福野・戸出・津沢・福岡などの近世に入ってできた町は平野部に位置している。このことから、砺波地方が、山麓からしだいに平野部へ開けてきたことがわかる。

 1649年(慶安2)の正月、杉木村の次郎兵衛は、太郎丸村の七郎兵衛ら近くの村々の有志とはかり、市場町の町立(まちだて)を願い出た。内容は、次のようなものであった。

@杉木には、もとの市場町がありましたが、1608年(慶長13)に庄川が流れ込んだので、なくなってしまいました。もう一度、市場をつくりたいと思います。
A長さ300間(567m)、幅80間(151.2m)、草高にして100石の地面(太郎丸80石、深江10石、杉木10石)をいただき、家100軒を建てたいと思います。
B市の日はもとは3と9の六斉市(ろくさいいち)でしたので、それと同じにしてください。これらの日は、付近の戸出や中田・柳瀬などの市の日と重なりません。
C100石の地面をつぶすかわりに、太郎丸・深江・杉木・大辻・小杉の各村の川跡を3年以内に開墾して、100石を差し出します。

 この願いは、砺波平野に町をつくり、商業行為を一定の場所でさせたいという藩の意向にも合い、さっそく許可された。こうして、今の出町である杉木新町が誕生したのである。この杉木新町は、中世の「市」から近世の「町」へ移行する過渡期的な形をとっていた。はっきりと町の建設を目ざしていながら、六斉市という市の名残を留めていた。しかし、しだいに、杉木新町は町として発達し、六斉市は享保のころ(1716〜1735)になると姿を消していった。

2杉木新町の発展
御旅屋の井戸・曳山(中町・西町)

御旅屋の井戸・曳山(中町・西町)

 杉木新町の発展の様子を追ってみると、まず、1653年(承応3)、作喰蔵(さくじきぐら)が建てられた。藩は、春の2・3月、食糧の不足している農民に作喰米という米を貸し与え、秋になって米を収穫してから返させたが、周辺村落の作喰米を収納しておいた蔵がこの蔵である。当時、砺波郡内の作喰蔵は6か所であったが、1718年(享保3)には、13か所に増えている。杉木新町の作喰蔵は、現在の信連会館(表町)のあたりにあったが、1734年(享保19)の記録によると、砺波郡の家75か村の作喰米を貯蔵していた。

 1664年(寛文4)、藩主の鷹狩りの休憩所としての御旅屋(おたや)が建設された。建設したのは、中神村の肝煎を勤めていた義右衛門であった。義右衛門は、草高450石余りを持つ富農であった。この年、杉木新町へ引っ越し、3カ月ほどかけて御旅屋を造り上げた。この御旅屋は、本町の不動湯のあたりにあって、今は、当時の井戸だけが残っている。1666年(寛文6)になると、杉木新町に砺波郡内の十村(とむら)相談所がつくられた。これは、毎月、郡内の十村役が集まり、農事の奨励など職務上の相談をしたり、郡内で起きた軽い民事を裁いたりする所であった。最初は、十村寄合所と言ったが、1668年(寛文8)より十村相談所と改められた。このような機関が置かれたことは、杉木新町が砺波郡の政治的中心として発展していく素地となった。

 1698年(元禄11)、杉木新町に蔵宿が生まれた。当時、農民から納められる年貢米には、お蔵米と知行米の2種類があった。お蔵米というのは、藩主用のもので、砺波郡では、小矢部・戸出・福光・城端など11か所の御蔵に納められた。知行米といのは、藩士の知行に当てられたもので、各町にある蔵宿に納められた。この知行米は、藩士の飯米や生活費に当てられた。1662年(寛文2)における砺波郡の蔵宿は、今石動町・城端町・福光村・戸出村の4か所だけであったので、現砺波市域の農民は、今石動町や戸出町・中田町などまで知行米を運ばなければならなかった。そこで、藩へ願い出て蔵宿の設置を許され、不動島屋源助が1万石分の蔵宿となったのである。それまで、杉木新町が平野の中央部にありながら蔵宿を持たなかったのは、地形上そのころの運送の主力であった舟運の便に恵まれていなかったのと、蔵宿を営めるだけの財力のある商人が少なかったためであった。蔵宿ができたということは、元禄のこのころになってようやく、富商が生まれたということを物語っている。ただ、蔵宿を営んだ商人は、その力の盛衰とともに複雑に変わっていった。

 現在の子供歌舞伎曳山は、東・中町・西町の3本である。このうち、西町の曳山が最も古く、天明9年(1789)に始まったと言われている。石動・城端。放生津・氷見などの各町で曳山がつくられた時期とだいたい一致している。曳山の経費のほとんどは、町の蔵宿として栄えた鷹栖屋や小幡屋、不動島屋といった商人が負担した。元禄のころに生まれた富商たちが、このころになると、豪華な曳山をつくれるだけの経済的余裕を持つようになっていたのであろう。

 1821年(文政4)、加賀藩では一時、改作奉行と十村を廃止した。郡奉行に農政面もまかせるようになったので、砺波御郡奉行が独立し、杉木新町に初めて御郡所(おこおりしょ)が設けられた。御郡所は各郡に置かれるのが普通であったが、砺波郡の場合は射水郡と兼ね、砺波・射水御郡奉行所として小杉新町に置かれていた。小杉新町が北陸街道沿いにあったためである。しかし、小杉新町に御郡所があったことは、砺波郡の住民にとって不便だったので、砺波郡内に御郡所を設置することが住民の願いとなっていたのである。この後もたびたび、御郡所は小杉新町に移ったが、その都度、砺波郡の十村たちは、御郡所を杉木新町へもどすように請願し続けた。

3杉木新町のしくみ
杉木新町の戸数の変遷

杉木新町の戸数の変遷

 近世の町として生まれた杉木新町であったが、郡奉行の支配下に置かれ、行政的には村として取り扱われていた。そのころ、越中の西部では、高岡・今石動・城端・氷見だけが町奉行支配であった。杉木新町には、村と同じように町役人として、肝煎(きもいり)と組合頭(くみあいがしら)が置かれていた。ただ、村の肝煎は、改作奉行だけの認可を受ければよかったが、町の肝煎は、郡奉行の認可が必要であった。

 杉木新町の肝煎の初代は、町立願書の筆頭にあった次郎兵衛で、3代目までにわたって勤めた。また、村では、肝煎・組合頭の相談相手になる百姓惣代(ひゃくしょうそうだい)という役職があったが、杉木新町では、町惣代(まちそうだい)と呼ばれていた。さらに、1800年代には、十人頭という役があった。町家10軒ほどを十人組として組織し、それを束ねるのが十人頭であった。現在の町内会の班長に当たる役である。算用聞役(さんにょうききやく)という役も置かれていた。郡奉行が任命し、商人の中に暴利をむさぼっている者がいないか、買い占めや売り惜しみをしている者がいないかなどを調べさせ、郡奉行へ通報させていた。1700年代(享保年間)の初めごろに始まったと記録に出てきているので、低物価政策を進めるための役職であったと考えられる。杉木新町の肝煎が代々伝えていた文書の中に、『町方定書(まちかたさだめがき)』がある。1800年(寛政12)に自主的に作られたもので、町人として守るべきことが書かれてあり、その内容は次のようなものであった。

@ 火の番の夜番は、責任を持って勤め、出火のときは、他の村の火事であっても町役人に知らせること。
A 火消役(ひけしやく)には、毎年200文(もん)あて支給し、火事のときよく働いた者にはほうびを渡す。火事のほか、盆や祭りで人が混雑するときも取り締まりに出たり、大風のときの警備に当たったりすること。
B 十人頭は、組の中をよく調べて人別帳(にんべつちょう)を差し出し、また、組の中の者で願いの筋があれば、すぐ町役人へ取り次ぐこと。
C 結婚や転居・同居などは町役人に届け出てからにすること。
D 山王川の橋の番人は、大水が出たらすぐ案内すること。

 杉木新町の町立願書では、100戸の家数を目標にしていた。この数に達したのは、20数年後の1676年(延宝4)のことであった。その後、少しずつ増えていき、幕末のころ200戸余りであった。町の人たちは「鷹栖屋〇〇」というようにすべて屋号でもって呼ばれ、屋号のほとんどは出身地の村名を表わしていた。特に、杉木新町周辺の苗加・鷹栖・高道・杉木などが多かった。庄東方面からは、ほとんど出ていなかったが、三谷村(現庄川町三谷)だけは多かった。

 杉木新町の商売には、「株立(かぶだて)」と「無株立」があった。株立というのは、決められた数の株仲間だけしか営業できないもので、たばこ屋・豆腐屋・酒屋・質屋・ろうそく屋・薬種屋(やくしゅや)・油屋などであった。一方、無株立というのは、数を制限しないで自由に営業できるもので、呉服屋・小間物屋・紙屋・菓子屋などであった。これらの店は、上納銀(営業税のこと)として、株立の店は、冥加銀(みょうがぎん)を、無株立の店は、売上高または製造高によって運上銀(うんじょうぎん)を納めていた。杉木新町の商圏の範囲は、杉木御蔵へ年貢米を輸送していた太郎丸村・杉木村・中神村・深江村・神島村・苗加村・中野村・五郎丸村・大門村・鷹栖村・小杉村・林村などの周辺の村々であった。中田町の御蔵入地であった庄東地方の村々や、戸出町の御蔵入地であった太田村・柳瀬村・南般若村などは、杉木新町の商圏に含まれていなかったのである。

 このようにして、杉木新町の発展の様子を見てくると、杉木新町が他の砺波平野の町と比べて、経済的に優越していなかったことがわかる。それは、舟運の便に恵まれていなかったこと、町を支える後背地が狭く、地場産業が育たなかったことなどがその原因であった。しかし、砺波平野のほぼ中央に位置していたことから、しだいに行政的な中心としての色彩を強めていったことは確かである。十村相談所や御郡所の設置がそれを物語っている。また、1858年(安政5)に、相談所の土蔵の新設について、砺波郡の十村たちが改作奉行へあてた願書の中で、「中央杉木新町」と記していることからも、当時の十村たちが、杉木新町を砺波郡の中央と認識していたことがわかる。明治以降の砺波市の発展の素地は、この江戸時代につくられていたのである。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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