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W−B近代の砺波『移りゆく農村』1〜3

2014.9.4

1地主と小作

慣行小作権の売買された地域

慣行小作権の売買された地域

 明治になると、川あとも開かれ、一面に水田が広がり、今と変わらぬ一大穀藏地帯をなしていた。しかし、今と違うのは、そこに複雑な土地所有関係があったことである。土地を所有しているのは地主、その土地を耕しているのは小作人である。ほかに自作者も多くいた。地主と一口と言っても、自ら熱心に耕作し、手の回らぬ分だけを小作に出す者もいたし、すべて小作人に耕させ自分は手をよごさない者もいた。小作人には、土地は借りているが肥料代や農具代など生産費はすべて自分でまかなう力のある者もいた。また労力だけ提供するが、あとはすべて地主まかせという者もいた。このように、地主と小作人の関係はとても複雑で、年貢の率もさまざまであった。このことはどの村でも合盛帳(ごうもりちょう)にくわしく記されていた。

 この地主と小作人の違いは、おのずと社会生活の上にもあらわれた。「地主さま」は小作人と比べてすべての面で優位で、大学へ進学したり、家では女中さんをおいてのくらしぶりだった。四民平等をうたった時代ではあったが、まだ農村では大きな身分の差があったのである。

 ところが、この砺波地方の土地所有関係をさらに複雑にしているものに「慣行小作権」というものがあった。それは、どの田んぼにも、土地を所有する権利(下地)と、土地を耕す権利(上地)の2つの顔があるということである。土地は地主が所有していて、このことは公簿にも記されている。一方、小作人は1枚1枚の田んぼについて耕す権利「慣行小作権」を保持していた。これは、どの帳簿にも記されていないが、暗黙のうちにみんなが認めているこの地方特有の慣行であった。そして、この権利は小作人や自作者の間で売買されたのである。

 この慣行小作権という特異な土地所有関係は、小作人であっても先祖代々耕してきた家のまわりの土地について、「これはうちの田んぼである」という権利を知らず知らずのうちに持ち続けてきたことによる。所有権が誰にあろうが、登記がどうなっていようが、自分が耕しているという事実が社会的に認められていたのである。散居村の砺波地方としては、自分の家のまわりに耕す田があるのはとても都合がよい。水をみたり、肥料をまきに行ったりするのにも便利だし、稲を運ぶにも背負って歩けばすぐ納屋に運びこめた。ところが、江戸時代の田地割制度では、自分の耕している田が分散する危険があった。そこで考え出したのが、耕地の「所有」と「経営」をわけることだった。だから、所有権が分散しても先祖代々の屋敷のまわりの田んぼの経営権はあくまでも維持できたのである。この慣行は扇央部中心に広く砺波平野にみられた。これがのちの農地改革に大きな影響を及ぼすのである。

2農業技術の改良
らせん水車

らせん水車

 明治前期の農法は、江戸時代末期のものが受け継がれていた。牛馬の力をかりて耕し、あとは家族総出の手作業で行なわれた。乾田の特性を生かしてれんげ草を栽培し、それに石灰をまいた肥料でかなりの効果をあげていた。また、北海道からの大量のニシンもあわせて使用された。

 元来、砺波地方は、良質米を産する早場米地帯として認められていた。それが地租改正により米納から金納にかわったことから、産米の品質が下がり不評となった。それは価格の高い時に売りに出そうとして、青刈りをし、充分乾燥しないうちに出荷したためである。そして、特に砺波地方に長く続けられてきた稲の地干しが問題となり、これを実施するには、毎年集落毎に郡長に許可をもらわねばならないくらいだった。このように明治後期になると、農業技術の改善は、官憲の力を借りて強制的に行なわれ、ひえのぬきとりや陰樹の伐採、たんざく苗代の奨励、害虫の駆除など、いわゆる「サーベル農政」が始まった。

 大正期に入ると、西中村の辻田与三次郎は、1919年(大正8)に新しい種子「与三次郎」を発見し、改名されて「新石白(しんいしじろ)」として普及した。この品種は、肥料を多く必要としたが、秋落ちせず倒れにくく、反当たり収量も多かったので人気を博した。このように品種改良が盛んになったが、これに重要な役割を果たしたのが、中野村・青島村・種田村などの扇頂部一帯に作られた種もみである。庄川の谷口に近い村々では、庄川にそって吹き出す風が強く、夜でも露がおりないことから、稲に病気が少なく良質の稲種がとれた。また、化学肥料も使われ始め、大正から昭和にかけて急速に伸びた。しかし、化学肥料は速効性があるが、農村経済を圧迫したので、堆肥の製造が奨励された。また、この大正期に農機具は大きく進歩し、足踏廻転式脱穀機が使われ始め、江戸時代からのせんばごきが姿を消した。また、この地方の産米改良を目的として、太郎丸村の金岡甚三により、金岡式穀物火力乾燥機が発明された。この機械は、県下各地はもちろん、全国に拡大普及していった。また、南般若村秋元の元井豊蔵は、元井式らせん水車を考案し、脱穀やもみすりの動力として使用された。

 このように、大正時代には農民の知恵と努力で農業技術は大きく進歩した。その自主的改善を賞するために、いろいろな品評会や競技会が行なわれ、その功績がたたえられた。しかし、牛馬に代わる動力耕うん機などの機械化は、第二次世界大戦後に待たねばならなかった。

3農村不況
米価の移り変わり

米価の移り変わり

 明治維新で世の中が変わり、庶民の生活もきっとよくなるだろうという希望があった。そして、農業中心の砺波の人々は、生活の向上をめざし、少しでも多くの米をとろうとよく働き、努力と工夫を惜しまなかった。しかし農村に貨幣経済が浸透するにつれ、その資本主義の嵐の中では、農民は全く無力で、その生活は苦しくなっていった。大地主はますます伸びていったが、一般農民は第二次世界大戦が終わるまで、苦しい生活をしいられた。

「松方財政のころ」
 
 明治初期の農村は、地租改正でゆれ動いたが、米価もだんだん上がり、米の多収穫を願ってニシンや石灰などの金肥が使われるようになった。地主の中には、小作米販売による利益で地方銀行を設立するものもでてきた。しかし、この好景気は、紙幣乱発によるインフレーションの結果であった。1881年(明治14)からの大蔵卿松方正義による紙幣整理で農村は一変した。米価の下落と台風による大凶作で、肥料代などの借金返済のために土地を手離す農家が続出した。支払いを求められた銀行は、担保の土地の地価が下がったこともあって、倒産があいついだ。自作農が小作化したり、村を離れて都会に出たり、果ては乞食となるものさえあった。明治初年までの大地主も「滋芳社」の倒産などで没落し、豪農的経営をしていた地主は、安い土地を買い集めて、大地主に成長していった。

「日清戦争のころ」

 日清戦争が始まると、米価が上がり、ようやく農村の景気も回復した。地主は米相場を利用して資本をたくわえ、肥料会社などの経営に乗り出すものも出た。一方、自小作農は、売る米も多くなったが、肥料代や家計費も増えた。凶作のたびに土地を手離す農家が多く、土地はいっそう地主の所へ集まった。

「北海道への移住」

 このように農民層の分解が進み、中小農民で土地を失った者が生じた。彼らの行先は一つは大都市であり、一つは維新政府の北海道開拓対策に呼応した北海道であった。不況のたびに一家をあげて村を離れ、厳寒の原野の開拓におもむいた。明治20年代後半から大正初めまで移民が多く、移住者の数は5000人以上に及ぶ。出身地は、出町、林、高波地区が多く、行先は、主に石狩平野や十勝平野であった。「北海道行き」と呼ばれたこの移住は、必ずしも名誉なことではなく、人目を忍んで行く場合が多かった。おの・のこぎり・くわをもって原始林に立ち向かい、汗と土にまみれながら開拓をすすめた。いずれの地においても、砺波人はしんぼう強く働いて、だんだんと土地を広げていった。しかし、この開墾の苦労は、筆舌につくせない大変なものであった。

「第一次世界大戦のころ」

 各村では、地主たちが中心となって農会をつくり、産米の改良から風俗矯正まで農村の振興をはかった。第一次世界大戦中のインフレ好景気の中で、米価がいっきに4倍にはねあがり、滑川では米騒動が起きた。この米価の急騰は、地主層に多大の利益をもたらし、大・中地主層が成長した。地主が耕作しない「寄生地主」化が一層強まった。そして、この利益を株式に投資した。一方、自小作農は諸物価値上がりで生活費がかかり、この農村景気の恩恵に浴することはできなかった。

 第一次世界大戦が終わると、大きな不景気の波がおしよせてきた。株の相場が一挙に暴落した。投資家になっていた中小地主層は大打撃を受け、所有地を手放したので、大地主ももとにますます土地が集まった。米価の下落はさらに続き、慢性的な不況のまま昭和に入った。そして、ついに1930年(昭和5)の農村大恐慌となった。官民一体となっていろいろの政策を施して景気の回復を図ったが、立ち直れないままに、戦時体制に入っていった。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

  • 乾燥機

  • 乾燥機

    入植当時の合掌小屋