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W−B近代の砺波『移りゆく農村』4・5

2014.9.4

4チューリップ栽培「チューリップ栽培」「そうめんといちご作り」

水野豊造

水野豊造

 慢性的な不況の中で、苦しい生活をしいられてきた自作農民は、なんとか収入を得ようと、さまざまな副業を試みた。その中で、今では県の花にもなっているチューリップ栽培が、大正時代にこの砺波で始まった。1918年(大正7)、庄下村矢木の水野豊造は、種屋からのカタログから見つけたチューリップという花を初めて咲かせた。真っ赤なかわいらしい花はたいへんめずらしがられ、切り花として高い値段で売れた。そして、開化のあと、土の中に見事な球根が育っていることを発見し、今度は球根を育てて売ることを思いつき、全国でも初めてのチューリップ球根栽培の研究を始めた。

 1924年(大正13)には、村内の仲間たちと球根組合をつくり、本格的にチューリップの球根栽培を始めた。冬のきびしい寒さや雪が、球根を一定の状態に保ち発病を防ぎ、春になると一斉に花を咲かせる大切な条件となっていったのである。それに、砺波地方の農家にとって都合がよかったのは、稲刈りのおわった11月から翌年の6月までチューリップを作れば、田んぼを1年に2度使え、水田の裏作として球根栽培ができることであった。1938年(昭和13)、初めてアメリカへ3万球を輸出し、翌々年には、40万球の球根が海を渡るようになったのである。

 しかし、第二次世界大戦が始まると、主食以外の作物の栽培が禁止され、豊造たちは、再び栽培できる日のために、畑のすみにこっそりと植え、目立たないようにつぼみのうちに花をつむなど苦労しながら150品種を守り続けた。そして、戦争が終わると、さっそく球根生産の立て直しをはかった。生産者たちは、富山県花卉球根農業協同組合を組織して、全国でも例のない自主統制による計画生産及び、販売体制を確立していった。こうして先人の努力と工夫のおかげで、今日のように農家の大切な副業として、また「富山のチューリップ」として、おおいに発展していくのである。

・そうめんといちご作り

 砺波の特産物に「大門そうめん」があるが、これも農家の副業として発展したものである。江戸時代末の1848年(嘉永元)、大門村の売薬の行商人が能登のそうめん作りを見て、この村に紹介した。この頃の砺波地方では、米づくりがただ一つの収入源で、ふゆになるとわら仕事をしてすごしていた。さっそくこのそうめん作りに熱心に取り組んだ。大門村にこの副業が定着したのは、小麦の生産、庄川の清い水、水車小屋、豊富な労働力と、いろんな条件がそろっていたからである。さらに、八乙女山から吹きおろす朝の嵐がそうめんの乾燥に最適で、衛生的なそうめん作りを保証した。以後、幾多の変遷を経て、今日も手作りのよさを生かして盛んに生産され、全国の人にふるさとの味を届けている。

 庄下村には、大正から昭和にかけて盛んに行なわれた副業に、いちごの栽培がある。福井県から苗を譲り受けたのが始まりだが、庄下草苺生産出荷組合を組織し、最盛期の昭和10年頃には、1日1万箱を出荷し、富山・高岡の市場を独占していた。

5用水の合口
合口による取入口の移り変わり

合口による取入口の移り変わり

 庄川がつくった扇状地の田畑をうるおす用水は、今は合口ダムを取り入れ口とし、網の目のように縦横に走って、豊かな水をはこんでいる。

 ところが、以前は、各用水が別々に本流から取り水をしていた。用水の取入堰は、材木と蛇籠で作られていたので、洪水のたびに流され、堰を修復せねばならず、その苦労はたいへんなものであった。しかも日照りが続いて水量がすくなくなると、川上に取入れ口を持つ用水がわがままをして、川下へ水をながさなくなるので、下流に取入れ口を持つ用水は取水にこまった。このことでいくつも争いがたえなかった。この取入れ口を一つにするという合口の考えは江戸時代からあったのだが、川上にある用水の力が強く、いっこうに話はまとまらなかった。

 やがて江戸時代になり、ようやく合口にしようという動きが具体的にみられるようになった。それは、小牧ダムを造り、2万kwの発電をする計画が持ち上がったのがきっかけだった。ところが、この話はすぐにはまとまらなかった。下流の各用水は賛成したが、最上流に取入れ口を持つ二万石用水が強固に反対したからである。

 しかし、ダム工事が進むにつれて、二万石用水が最も取水困難になるとわかると、ついに条件付きで合口事業に加入することになり、県営事業として1926年(大正15)にようやく話がまとまった。そして、ダム建設工事は1936年(昭和11)にようやく着工され、3年後に左岸、4年後に右岸の新幹線水路ができあがった。各用水がもはや本流に取入れ口を持つ必要がなくなり、この合口の完成によって、12.300ha(受益農家約2万戸)がうるおされるようになった。

 さて、この合口事業の総工費388万円の費用分担についてみると、驚くことに、用水の恩恵を受ける地元の費用負担ははとんどなかったのである。それは、用水取入れ後、分水までの幹線水路に中野発電所を設置することにより、その所有者から総工費の約半分の額の寄付金を得ることができたからである。残りの費用は、国・県の合口助成金と、小牧・祖山の発電所の所有者からの寄付でほとんどまかなってしまった。このように、実際の地元負担金が少なかったことも、合口事業を推し進めるおおきな支えであった。

 中野発電所が完工したのが、1943年(昭和18)。時あたかも第二次世界大戦の最中であり、起工式の盛大さに比べ、竣工式はあまりにもささやかな集まりだったといわれる。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

  • チューリップ栽培

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    左大門そうめん・右いちごのレッテル

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    用水取入堰の風景