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X−@現代の砺波『戦後の民主化』4

2014.9.4

4六・三・三制「戦後直後の学校と子供」

すみぬり教科書

すみぬり教科書

 1945年(昭和20)8月15日、子供たちの多くは「玉音放送」を知らなかった。たまたま砺波地方の青年学校の男子生徒たちは、少年志願兵の試験先である、福野小学校の校庭で敗戦の玉音放送を聞かされた。数日後、各学校に児童、生徒が召集された。そして、校長が終戦の詔書を奉読し、戦争に敗れたことを正式に伝えた。この日から教育界は混乱におちいったが、学校は一日もやすむことなく続けられた。軍政部から、国民学校で学習されている修身、国史、地理などの教化の学習停止命令が出された。国語においても、皇室、神社、軍事教材はすべてけずられ、いわゆる「すみぬり教科書」が用いられた。5年生の『よみかた』では「海軍のにいさん」「にいさんの入営」「支那の子ども」などが全文削除になり、全体の3分の1がすみぬりで読めなくなった。

 また、「奉安殿」がこわされ「御真影」も返され、講堂の神棚もおろされた。そのほか、軍事関係書類、青年学校使用武道用具も焼却せねばならなかった。各学校へ進駐軍の巡視があった。旧領土が日本国の色でぬられた地図や愛国行進曲のレコードを発見すると、すぐ「ファイヤー」「ファイヤー」と叫んで焼却を命じた。東野尻小学校では苗加神社が学校と近接しており、このことは国家神道と結びつくので柵をもうけるように警告した。しかし、このような軍国主義的教育の払しょくの嵐がふきぬけるさなか、やがて子供たちは起伏のあるグランドで、縄であんだ即席のバックネットをはり、「ストライク」「アウト」と英語を使った野球を楽しむ声も聞こえるようになった。

4六・三・三制「小学校教育の衣替え」「新制中学校発足」
新しい中学校の案内

新しい中学校の案内

・小学校教育の衣替え

 小学校教育の内容は大きく変わった。第一に、今までの修身、公民、地理、歴史を廃して、新しく「社会科」が設けられた。第二に女子だけに課していた裁縫および家事が「家庭科」となり、5年生以上の男女が学ぶことになった。第三に「自由研究」の時間が設けられ、子供たちに自主的活動を行なわせていくことであった。ほかの教科も名称は変わらないが、内容や取扱いに大きな改善が加えられた。


・新制中学校発足

 新制中学校の開校は、町村行政当局にとって、政治的、財政的に最も大きな問題であった。そのため複数の町村が学校組合を設立して、中学校を設立する方法がとられた。

 誕生したといっても、新制中学校の発足は文字通り、「無」からの出発であった。校舎どころか、教職員も不足していた。組合立としてスタートした出町中学校は出町小学校を借りて本校とし、1、3年生を収容し、2年生は、鷹栖、林、庄下、東野尻の各小学校を借りて臨時分校とした。当時の状態を学校日誌の中で「校舎もなく、備品もなく、教具もない中で、新発足する中学校教育をどうして効果的に実施するか・・・・・・。」と記している。他の中学校も小学校を借りて授業を行なった。

 今まで「小学校卒業生の30%弱の子供たちしか上級学校へ進学していなかったのに、いきなり全員が中学校へ進学するというので、どの家でも大きな関心を集めることになった。この頃、一般には新制中学校のことを“シンチュウ(新中)”と呼び、事ごとに話題となった。

4六・三・三制「新制高等学校の発足」

 1948年(昭和23)は、新制高校が波乱のスタートを切った年である。このスタートまで、旧制中等学校の昇格問題や、男女共学、総合制、学区制のいわゆる高校三原則の実施など多くの難問があった。

 鷹栖にあった富山県立砺波中学校は、4月に富山県立砺波高等学校となり、9月学区制実施により、出町高等女学院をあわせて富山県立出町高等学校として、高校三原則にそう新制高校としてスタートした。その1年後に不幸な出火にあい、鷹栖地内にあった校舎が焼失してしまい、校地は現在の地に移転された。1952年(昭和27)に砺波高等学校と改称された。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】