7現代 活躍の場を広げて−北海道・静岡−(その1)
2015.2.5
旅に出た 庄川の流送夫
流送夫の仕事
昭和初期、庄川で流送が出来なくなると、流送夫たちは、仕事場を日本各地に広げました。春夏は北海道各地の川で、秋冬は主に静岡の大井川で流送を行ないました。富山の家で過ごすのは正月から3ヶ月程と盆前後数週間のみで、それ以外は流送に出掛けていました。
家で待つ流送夫の妻は、夫から連絡がないことが無事である証拠と信じ、夫の無事の帰宅を心より祈りました。高度経済成長に伴い、道路や鉄道が整備されたことによって、トラック・鉄道による運搬が可能になったことと、川にダムができたこと、外国から安い木材が入ってきたこと等により、徐々に流送が行なわれなくなり、全国的に昭和40年前半で流送は姿を消しました。
流送夫の仕事
富山(自宅) | 北海道 南樺太・満州 | 静岡 | |
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1月 | ↓一番のんびりと家族と過ごせる時期 | ↓流送の仕事が終わらない時は正月もなく働く。仕事が終わるまで富山に帰れず賃金もない。 | |
2月 | ↓ | ||
3月 | ↓中旬から20日頃まで | ↓まだ雪が残っているうちに北海道入り。山に切り倒した木を雪ゾリを使って運ぶ | |
4月 | ↓ | ||
5月 | ↓南樺太の川は北海道の川とよく似ている。 | ||
6月 | ↓北海道の川は幅が広く勾配がゆるくゆったりしている。 | ||
7月 | ↓井波の太子伝の頃に帰ってくる。 | ↓鉄砲はあまりしない。 | |
8月 | ↓盆を過ぎたらそろそろ行く準備 | ||
9月 | ↓早稲の稲刈り作業を手伝ってから静岡にいくこともある。 | ↓焼津の舟大工を連れて山に入る。大井川上流の東岳に入るのに山梨県側から入り、山越えしながら何日も歩いて現場に入った。 | |
10月 | ↓大井川は水量が少なく、ごつごつした岩が多い。鉄砲をして川下げしないと流れない。 | ||
11月 | ↓大井川もとても寒く、川が凍る。氷片が浮く中流送する。 | ||
12月 | ↓基本的に12月中に仕事を終わらせる。 |
流送夫の生活
静岡大井川の飯場(はんば)
流送夫は組に所属して仕事をしました。庄川流域の中野、三谷、庄辺りに特に多くの流送夫がいました。
組の頭は庄屋と呼ばれ、庄屋の下には帳面付の小庄屋(こじょうや、庄屋代理)、実際に流送するトップの代頭(庄屋代理)、その下に数人の小頭がおり、さらに人夫がいました。流送付は、数か月間、山にこもりっきりで、電気もひけないような山奥での生活が主流でした。食事と寝泊りをする飯場(寄宿寮)でもランプを使った生活でした。
朝は5時半に起床。朝飯はごはんとわかめの味噌汁で、6時から仕事。昼飯は弁当。おかずは北海道ではニシン、昆布、鮭など、山の中では山菜など、近場でとれるものばかりでした。仕事が終わるのはキリの良いところで、夕方5時のことも6時、7時のこともあり、また日の入りなどによっても変わりました。飯場へ帰ってきたら晩飯を食べ、風呂はドラム缶風呂で毎日入りました。寝るのは一部屋に20〜30人くらいの大部屋に同じ組の人夫が雑魚寝しました。1つの飯場には2週間ほど滞在して、仕事場とものに次の飯場へ移動しました。
【砺波郷土資料館『流送に生きた人々展示図録』平成26年より抜粋】
組のしくみ