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1庄川町のあけぼの(その1)

2016.2.25

1原始の庄川びと

日本人の起源


 原始の『庄川びと』とは縄文時代中期に、庄川の第三河岸段丘の松原地内に倚を構えた縄文人を言うのであるが、その前に、広い意味の私たちの祖先、則ち日本人の起源について諸書に見てみよう。

 この日本人の起源問題は、私たちのもっとも知りたいことの一つであるが、未だにハッキリしていない。かつて、明治から大正にかけて、縄文時代人はアイヌであるという説が有力であり、ついで昭和のはじめ頃(戦前まで)、縄文時代費とが混血によって、アイヌと現代日本人とに変化したとする説が有力になった。これからすると、現在北海道・樺太(サハリン)に住むアイヌのあとに、現代日本人の祖先が渡来したのでなく、石器時代人が両者の共通の祖先である。この原日本人(日本原人)は、縄文時代に渡来し、その後大陸や南洋諸島から渡来した種々の人種と混血して、現代日本人となり、現代アイヌも日本原人、すなわり石器時代人と北方異人種との混血によって、形成されたのであるとの考え方であった。

 ところが戦後の昭和26年、「日本人の遠い祖先は中国南部からきたものとするのが、これまでの各方面の研究から、最も無理のない考え方だ」賭するのが比較的広く認められるようになった。ただ、その渡来ルートが中国の南部方面から直接か、または、中国中部そして朝鮮へと渡り、わが国の北九州へ移ってきたとするものか、あるいは、その両者であったともいわれている。もちろん対馬(つしま)海流にのって、朝鮮から直接、越(こし)の国(富山県)に漂流してきた渡来人もいたであろう。

 長い日本の歴史をかえりみると、日本人種もけっして固定したものでなく、日本列島はその後も海外から新しい人種を迎えいれ、同化と流動を繰り返し現代に至ったといえる。

 

縄文人の出現


 長い長い氷河期も、今からおよそ一万年前には殆ど現在の気候とかわらなくなった。火山活動も少なくなって、植物が繁茂するようになった。そして先土器(せんどき)(旧石器)時代から、やがて縄文時代へと移り変わってきた。彼らは、はじめて土器を用い石器には石やじりを使って、弓矢が生まれた。海水面の上昇(海進・かいしん)によって、サケ・マスなどの魚類が豊富になったので、これを追って谷の奥深くにまで入りこみ、洞穴や岩陰などに住むようになった。このように動物や植物も以前より多くなったようだが、まだ竪穴(たてあな)には住まない、いわゆる縄文時代の幕開けである。

 このように生活がある程度楽になると、さらによりよい環境を求めて活発に移動しはじめた。彼らの一部は海の幸に気づき、海辺や潟の周辺に生活するようになった。豊富な魚介類はこれらの人々の生活を豊かにし、各地に貝塚(食べた後の貝殻を捨てたところ)を残すようになった。この時期が約1万年から7千年前まで続いたと言われる縄文早期である。この時代から竪穴住居が用いられるようになったが、柱の立て方は不規則で、また、炉は室外につくられた。土器は、底のとがった(尖底土器・せんていどき)ものを地中に突き立てて、その周囲を火で囲んで煮炊きしていた。この時代の県下の遺跡としては、魚津市桜峠遺跡・立山町吉峰遺跡・大沢野町直坂遺跡・砺波地方では福光町神明原遺跡などがある。

 さらに、約7千年から5千年前までつづいたのが縄文時代前期で、気温はさらに上昇し亜熱帯植物が繁茂した。また、海水面が数メートル上昇したといわれ、海岸線は後退して平地の奥深くまで海水が浸入するところもできた。その結果、県下でもあちこちで平野が浅い海となり、海の幸を豊富にした。この時代の代表的遺跡が氷見市朝日貝塚。富山市小竹貝塚。同市しじみヶ森貝塚などである。この頃から室内に炉がつくられるようになり、それと同時に尖底土器に代わって平底の土器が用いられるようになった。また、土器は深鉢(ふかばち)形が多く、文様(もんよう)も色々変化を示し、耳飾りなど玉製品も一部でつくられるようになった。

 この次が、原始の『庄川びと』が登場する、縄文時代中期で、約5千年から4千年前のことである。

 

庄川びとの定着


 この頃になると気候は現在とほとんど変らなくなり、したがって海水面も現在に近い状態となった。この頃は海岸地帯よりも、内陸地帯の文化が大きく発展した。また、県下各地のみならず、北陸地方、さらに中部山岳地帯などとの広域にわたって、互いに交流し合いながらもそれぞれ独自の文化をはぐくんできた。

 この縄文中期になっても、耕地は全くなく、山も平野も原生林や雑草でおおわれており、ましてや、庄川扇状地である砺波平野は、大きなあめごとにその幾筋にも分流する流路は、東に西に変貌し、一面河原石でゴロゴロしていた。人々は、その間のわずかな山麓の台地を選んで生活を営んでいたのである。

 しかし、寒さと戦わなければならなかった先土器時代の人々に比べると、クリ・ドングリ・トチの実などのほか、イモ類・カタクリ・ワラビなど根茎類。シカ・イノシシ・ウサギなどの獣類、あるいは川や海、潟などの魚介類が豊富となり、生活は豊かになった。

 このように、縄文人の生活力の活発さは、県下に見られる数多くの遺跡のうち、およそ過半数が縄文中期のものといわれることでも理解できよう。

 それでは、庄川へ最初にやってきた縄文人は、いったい庄川のどこに住みついたのであろうか。今、松原地内から後背する閑乗寺山を結んだ場合、まず第一段丘があることがわかる。

 ところが、このいずれの段丘からも縄文時代の遺物が採集されている。松原遺跡については後述することとし、岩黒地内から、打製石斧(せきふ)・磨製石斧などがあり、ポンポン野地内からは、昭和初期の金屋耕地整理事業がなされたとき、住居跡は確認されなかったが、おびただしい土器・石器類が採集された。そして、はやくポンポン野遺跡として知られ、後になって発見された松原遺跡も、初めはポンポン野遺跡と混同されたことがあった。

 これらの出土品の特徴を見ると、縄文中期はさらに、前葉・中葉・後葉に細分される。岩黒地内のものは、採集量が少ないから別として、第二段丘のポンポン野の土器は、松原遺跡のものより幾分古く、中期前葉のものがほとんどを占めている。松原遺跡の豊富な出土品には、若干中期前葉のものも見うけられるが、中葉を中心に、さらに後葉への発展過程と思われるものが少し確認された。

 河岸段丘とは別名、河成段丘ともいわれ、河谷の岸の階段状地形をいい、河道の変化、河川の流量の変化、土地の隆起などによって生ずるものである。庄川の流路の移りかわりについては後述するが、多くの分流のなかでもその主流は、井波・津沢など西方向から、次第に東方向(中田・大門方面)へ移っていったとされている。

 これらのことから、『庄川びと』は、山麓の高い台地から長い年月の間、次第に庄川の水ぎわへ移った経過を示しているといえる。

 どこから来たかわからないが、数家族の縄文人が庄川のほとりに住みついた。彼らは、まぎれもなく段丘崖の下を流れる、庄川の豊富な川魚の魅力にひかれてやってきたものと思われる。それは、松原遺跡の大きな特徴として、どの地点からも石錘(せきすい・いしおもり)が数多く出土したことでもよくわかる。偏平(へんぺい)で小さな(だ円形の直径は、平均6センチメートル前後)河川石の両端を、一部打ち欠いただけの石器であるが、その用途は、あきらかに漁用網のおもりとみることができる。

 庄川にダムが建設された現今では、全く目ふれることのなくなったサケ・マスなどが、かつては庄川をどんどんさかのもっていたものとおもわれる。

 また、岩黒段丘崖の下には、よく知られた瓜破清水(うりわりしょうず)・桜清水など、ポンポン野段丘崖の下には沢田・雁沢(がんそ)など、いずれも湧水が見られるが、これも『庄川びと』にとっては、飲料水として魅力あるものの一つであったに違いない。

 このように庄川いとの定着は、縄文時代中期であるとの定説は動かし難いが、一方、松原遺跡の数多くの遺物には、未だに解明されないものがある。松原遺跡第1地点(43年発掘)から、数は少ないが、15点ばかりの剥片(はくへん)石器(ブレンド・スクレッパー・ポイントなど)と思われる石器が検出されたことである。この剥片石器は、長さ1〜3センチメートルほどの、ごく小さい石器で、うっかりするとつい見落としがちであるが、縄文時代以前の先土器(旧石器)時代のものと思われる。

 この剥片石器の発見は、当時、発掘に関係した何人かは確認しているが、松原地内で初めての縄文時代の住居跡の発見などで、どうにも時代区分として位置づけることができず、宙に浮いたままとなった。現在、遺物のみでこの問題は解明し難いが、以後の調査・研究に待ちたいものである。



【榎木淳一著 村々のおこりと地名<地名のルーツ=庄川町>昭和54年より抜粋】