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「砺波市の地名」の記事

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10油田(あぶらでん)その2

2016.6.8

4. 新又(あらまた)

1 京ヶ瀬島(きょうがせじま)

  ・クボ(窪) 京ヶ瀬島は上段と下段に分けられる。上段は作土が薄く砂利が多い。下段は1m以上の砂地であった。昔は、川の一番深い淵であったのだろう。
  ・ヒラク(開) 遅く開墾した所から「開く」と名付けられ、又吉が他人に作らせたと伝えている田地である。
  ・カソウバアト(火葬場跡) 明治42年に中村外5ケ村の共同火葬場が作られたので開墾された所である。


 2 仁右衛門島(にようもんじま)

  ・ニヨウモンアト(仁右衛門跡) 仁右衛門が経済的に行き詰まり、明治中期に北海道に移住した跡地である。

5. 宮丸(みやまる)

1 熊ノ林(くまのばやし)

  ・ムカイガワ(向川) 中村中央より三郎丸村との境を通り、宮丸村の向側を流れていた宮丸川の一部の呼称である。中の島地先で三郎丸川に合流した。
  ・クビカケダ(首掛田) 十村安藤次郎四郎が御収納米の未納者を見せしめのため処刑した者の首を曝した所と伝えている。木舟社の南側の道路沿いの柳があった所らしい。
  ・ハスダ(蓮田) 十村安藤家の外濠に続いた池に蓮が栽培されたので名付けられた。
  ・マエカワヅクリ(前川作り) 十村安藤家の用人であった前川節三の屋敷の南側にあたる旧宮丸川の上流の田地である。前川が開墾したので付けられた名称である。
  ・サンマイ(三昧) 十村安藤家の西側にあるので、近くに居住していた人々の火葬場跡といわれている。圃場整備の時には墓石もなく雑草が生え繁っていた所であったので、骨らしいものが出土したといわれている。
  ・アンドウノボチ(安藤家墓地) 十村安藤家の墓地である。当時の墓域の記録はないが大きいものであったであろう。圃場整備の時に現存した3基の墓石のある所を中心に残されている。
  ・マエカワヤシキダ(前川屋敷田) 明治初期に作成された古地図(黒田信一の所蔵)には前川節三屋敷と記されている。
  ・アンドウノソトロウジ(安藤家の外庭園) 十村安藤家の外側の庭園を開墾した田地である。
  ・アンドウサマヤシキアト(安藤家屋敷跡) 十村安藤家の屋敷跡。明治20年に金沢市に転居したので開墾して田とした所である。明治末期の古地図では地番が細分されているので、外濠の土居を壊して埋戻しながら何回かに分けて開墾して登記したものと考えられる。
  ・アンドウサマヤシキソトボリ(安藤家屋敷外濠) 安藤家屋敷の開墾の際、外濠も同時に開墾されたが、地番が軟弱な所が外濠跡であろう。
  ・セッペイダ(節平田) 地主深谷節平の土地であろう?高木亮治が耕作していた。
  ・アナダ(穴田) 火災による焼失した西方寺再建の時、盛土用の土を採取した穴跡と伝えている。
  ・ユウジロヤシキアト(勇次郎屋敷跡) 黒田元次郎屋敷と古地図に記され、黒田源蔵の祖先が入居した。その後、屋敷は開墾され水田となった。この家は不幸にして大火に遭い家屋が焼失したので、村人達は悲しんで氏神様に火事払いを祈願した。それ以後、6月10日の田祭りと併せて無火災を祈願する火祭りの祭事が行われている。
  ・ウタロウヤシキアトダ(宇太郎屋敷跡田) 明治初期に宇太郎が転居した跡を開墾した田である。
  ・ヒラキダ(開田) 尼様の居所であったが、北海道に移住された跡を開いて田とした所である。


 2 流れ島(ながれじま)

  ・カッチリダ 長三角形で周囲より低く、四方は畦塗りを必要とした田で、石が多くゴロゴロと硬い田圃であった。煮た黒豆の硬いのに例えて「カッチリダ」と名付けたという田であった。
  ・ナンドノタ(納戸ノ田) 村の北端の一番奥にあったので奥の間に例えて名付けられた。
  ・ニシダタケベイヤシキダ(西田竹平屋敷田) 東京へ転居した西田覚太郎の弟竹平の屋敷跡(古地図に所蔵)である。
  ・クロダモトジロヤシキアト(黒田元次郎屋敷跡) 黒田元次郎の屋敷であったが転居したので開墾した田。
  ・サクシロダ(作四郎田) 明治初期には作四郎がいたが転居したので開墾した田である。
  ・カンベイヤシキダ(勘兵衛屋敷田) 古文名記帳に薮田勘兵衛借地とある。勘兵衛が移転したので開墾して田にした所である。
  ・モトジロヤシキアト(元次郎屋敷跡) 古文名記帳に黒田元次郎屋敷とある。元次郎が転居した後、開墾した土地である。


 3 中の島(なかのしま)

  ・ゾウサマアト(地蔵様跡) 十村安藤家の「ダイモン道」沿いに地蔵堂が建ててあったといわれるが、その後、何回も移転して宮丸171番地に祀っている。
  ・セイザイモンヤシキダ(清左衛門屋敷田) 石井清左衛門が明治20年頃転居したので田とした所である。
  ・カワダ(川田) 宮丸川に沿って、流路の変更した跡地を開墾した所である。
  ・ヌマダ(沼田) 川田と並んで川の東にあった。
  ・ハサバノシタ(架場の下) 油田の中心地から千代・岡御所へ通じる高岡往来(旧県道)沿いにあった「ハサ木」に仲買人達が馬を繋いだところから、この辺りを「ハサバノシタ」と称したという。
  ・ショウガッコウアト(小学校跡) 明治6年に宮丸村西方寺に必遂小学校を開設。明治42年に油田小学校が新築されて移転した。昭和38年に学校統廃合により砺波市東部小学校に統合された。現在は「ふれあいの広場」と砺波市シルバー人材センター事務局がある。


 4 宇津安島(うつやすじま)

  ・フカダ(深田) 千代村境からJR用地西の水路沿いに、南に延びながら蛇行した地であったが、川を改修して田並びを揃えられた。昔は低地で深い所だったので「フカダ」と名付けられた。
  ・カワダ(川田) この一帯は川より低いため、川水がいつも流れ込むので、川田と称したと記録されている。
  ・シカダ(鹿田) 昔、この辺りに鹿が棲んでいたので鹿田と名付けられた(油田村史)。
  ・キヘサノスイシャバ(喜平の水車場) 大正初期に祖父川から分水して水車場を作り、精米・精粉をした所。
  ・ミヤノウラセキヒアト(宮ノ浦石碑跡) 相撲力士、宮ノ浦政次郎が明治初期に江戸相撲に名を連ね、地方巡業にも加わっていた。多数の弟子も養成していた十両級の力士であった。後に宮丸村中ノ島の宗家住んで地方相撲界に貢献していた。大正4年7月5日、72才で生涯を閉じた。地元有志が中心となって、力量と相撲界に貢献した功績を讃えて大正4年12月に顕彰碑が建てられた所。現在は西方寺境内に移転している。

6. 堀内(ほりのうち)

1 道幅島(みちはばじま)

  ・マルダ(丸田) 小野忠宅の南側にあった田圃。山林を開墾した地で真っ直ぐな畦がなかったので「丸田」と称したといっている。
  ・サンマイダ(三昧田) 明治初期まで堀内地区が火葬場として使用していた地で、田に開墾した所。地番は旧260番地である。
  ・ナガレダ(流田) 昔、射水川の支流の川原を開墾して田とした所である。
  ・スナイケダ(砂池田) 小野久男の屋敷近くの西南にあった田圃で、以前は砂畑であったが、土を入れて田に直した所。
  ・タヨモンヅクリ(太右衛門作り) 明治初期に転住した太右衛門を開墾した所。
  ・タヨモンヅクリ(太右衛門作り) 上記の並び田。


 2 太堰島(おおせきじま)


 3 窪島(くぼじま)

  ・スギタ(杉田) 明治以前は杉及び雑木が繁茂していた所を開墾して田にした所である。
  ・カワダ(川田) 明治中頃、河川敷の一部が移動したので瀬戸口用水を埋立して田にした所である。
  ・ゴンジョガリ(五十歩刈) 明治初期、北海道移住者の屋敷跡を開墾した所。稲を50束刈り取った田(現在の坪刈と同じ)であったので名付けられた。
  ・ショウジロダ(庄次郎田) 幕末の頃、庄次郎がすべてを売り払って他へ移住したので名付けられた地。
  ・ショウジロダ(庄次郎田) 上記の並び田で下の田。

7. 三郎丸(さぶろうまる)

1 蛇池(じゃいけ)

  ・ヤシキダ(屋敷田) 寛政元年の大洪水は玉本善助の南垣に襲いかかり家屋まで押し流したと伝えている。その善助の屋敷跡を田に直した所。善助は玉本徳蔵助の本家である。
  ・ジンジャダ(神社田) 大正2年、旧4ケ村合併まで町村の神社があったが、圃場整備の時まで地蔵堂があった所で、現在は佐藤為次の耕作田である。


 2 小開(こひらき)


 3 庄助開(しょうすけひらき)

  ・ヒラキダ(開田) 庄助開の由来は「与三兵衛は加賀藩の草取役を勤めたる者。此処に住し、その子庄助が町村の河原を開拓したるものにて、今も庄助開と云う。その後、零落して何処にかへ去れり」とある。与三兵衛の家系は、
           与三兵衛     宮本与三郎
                    佐 藤 源 蔵 である。


 4 宮島(みやじま)

  ・ジンジャダ(神社田) 宮島の由来には「昔、宮島461番地に河原宮と云う神社あり、現在の長谷川製作所に敷地内にある故、舟戸口用水と戸出川の間を云う」とある。


 5 中開(なかひらき)

  ・サンマイダ(三昧田) 三郎丸と堀内が合同して使用した火葬場の跡地を開拓した所。現在は(株)チューエツの敷地内となっている。


 6 南西島(みなみにしじま)


 7 内免島(ないめんじま)

  ・ゴロエンモンダ(五郎右衛門田) 大坪の肝煎松井五郎右衛門の屋敷跡で、明治37年、他地へ転住したので開墾して田形とした場所である。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 松村久次郎の屋敷跡。久次郎の後へ大橋理吉が入る。理吉が野松以寛の後へ移ったので松村久作が入居して田に開墾した。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 大正2年、三郎丸外3ケ村が合併して、廃社となった大坪の神社跡を開墾して田とした所である。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 松井五郎右衛門の墓地が宅地に接続していたので、屋敷と同時に開拓された所。
  ・ヤグラアトダ(櫓跡田) 昭和初期に石油が出るといって櫓を立て試掘した田である。


 8 二俣島(ふたまたじま)


 9 堰根島(せきねじま)


 10 六反島(ろくたんじま)


 11 川除外島(かわぬけそとしま)


 12 西島(にしじま)


 13 内幅(うちはば)

  ・ジンジャアト(神社跡) 昔、地仙の神社のあった所だが、現在は仙道四郎の宅地に編入している。
  ・ハカニタ(墓ノ田) 昔、地仙村の墓地であったが、移転したので開墾されて田形とした所である。
  ・サンマイダ(三昧田) 昔、地仙村の火葬場であったが、開墾して田形とした所である。
  ・キュウゾウヤシキダ(久蔵屋敷田) 仙道久蔵の屋敷であったが、沼田某へ売り渡した。両人とも北海道へ移住したので開墾して田形とした所である。


 14 川除外(かわのけのそと)


 15 茶畑島(ちゃばたけじま)

  ・チャバタケ(茶畑) 前油田村役場があった所。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 桜井石太郎の屋敷跡で、どこかへ移住したので開墾して田形とした所である。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 野松以寛の屋敷跡で、東京へ転住したので開墾して田形とした所である。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 野松以寛の墓地跡を開墾して田形とした所である。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 明治中頃、北海道へ移住した藤沢某の屋敷跡であるが、開墾して田形とした所である。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 三郎丸神社の近くにいた山本勝の祖先が火災に遭い、現在の舟戸口用水近くに転住し、屋敷跡を開墾して田形にした所である。


 16 川田島(かわだじま)

  ・カワダ(川田) 岡田直久の屋敷跡で元は川の中州にあったので、南北に長く相当な面積があった。開墾して田形とした所である。
  ・カワダ(川田) 高桑清次の先代までの屋敷林で、川が氾濫して被害を蒙り、田形とした所で、相当に広く長い地であった。
  ・カワダ(川田) 川合九兵衛の屋敷跡で、長く柿の木が1本残っていた場所である。
  ・カワダ(川田) 桜井家(宗一郎)の墓地跡で先の川田に準じる。
  ・ヤシキダ(屋敷田) 野松幸一の屋敷跡で、現在地に移転して田に開墾した所である。


 17 内幅島(うちはばじま)

    以前から川原と呼んでいた所をいう。


 18 中開島(なかひらきじま)


【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】