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10油田(あぶらでん)その3

2016.6.9

8. 千代(せんだい)

1 松久島(まつひさじま)


 2 池田島(いけだじま)

  ・ヒラキダ(開田) 由来不明。52番地の1。
  ・サンマイダ(三昧田) 火葬場の跡地で開墾した所で75番地。
  ・ジゾウダ(地蔵田) 現在の地蔵堂の下の田。97番地の1。
  ・ジゾウダ(地蔵田) 上記の隣接地。
  ・カァランダ(かぁらんだ) 由来不明。104−1番地外合併。
  ・カギタ(鍵田) 由来不明だが、田圃の形が鍵に似ていたところから名付けられたのだろう。104番地の2・105番地の2.
  ・コウシンヅカダ(庚申塚田) 庚申塚が隣接していた田であったため名付けられたのだろう。
  ・ミナミタカギ(南高木田) 南高木(高波)の飛地の意味か。または、南高木村の用水取り入れに関係した田であろう。132〜134番地。
  ・キタタカギ(北高木田) 北高木(高波)の飛地の意味か。または、北高木村の用水関係の田であったのだろう(用水取入口もしくは用水の川浚いの時の砂利等の集積場)。
  ・タマダ(玉田) 周囲の田より低い田圃(3筆)であった。


 3 宮流(みやながれ)

  ・アイガメ(藍甕) 田圃の形が藍甕に似ていたので名付けられたと祖母から聞いている(棚田しめ子説)。昔は深い淵であったところから名付けられたのではなかろうか。
  ・デンセヅクリ(出店作り) 由来は不明。林重雄宅の東側の田をいった。
  ・ヨロイダ(鎧田) 由来は不明。382番地の1。
  ・サンジュガリ(三十刈) 稲30束を刈り取った田(昔の坪刈のことだろう)である。392番地。


 4 金叩(かねたたき)

  ・オオセダ(大勢田) 大勢町の人達が耕作していたというが、真偽は一切不明である。
  ・ゴタンツボ(五反坪) 由来不明。603・604・606〜616番地合併の田圃である。
  ・オリダ(織田) 由来不明。619・620・632番地。


 5 西島(にしじま)

  ・エボシダ(烏帽子田) 由来不明。
  ・クボダ(窪田) 由来不明。810・811番地合併。

9. 石丸(いしまる)

1 外島(そとじま)

  ・オマンブチ(お万淵) 城端線の東一帯に深く広い淵があった。お万という美女が投身自殺したことから名付けられた場所と言い伝えている。近年まで帯水鴎が群をなして飛来していた所である。350番地。
  ・ソトジマ(外島) 外島のことを川除東(カワイケヒガシ)ともいわれているが、城端線沿いの道路は昔、石丸最西部の堤防で、北は光明寺村より南の三郎丸村・地仙村に通じていた井波往来またはかわいけ道といっていた。千保川のカワイケ(堤防)を掘って道路を補強した。その掘った跡を戸出口用水に利用したと伝えられ、お万淵等の大きい淵が多くあったので大変高低差が甚だしかった。


 2 場市島(ばいちじま)

  ・バイチ(場市) 庄川の第一堤防の西方に位置し、カスミ堤防の一部であろうか。下流の戸出で打ち切られた大きい堤防であった。昔は物々交換をした市場であったという説がある。第二次世界大戦中は小学生まで動員して、甘藷栽培して食糧増産に励んだ場所である。


 3 内島(うちじま)

  ・ナカミチ(中道) 城端線の西側にある南北の道路。千代の橋本孝軍宅の近くから武島正夫宅の背戸、円満寺を経て松岡宣之宅付近までの道路であったが、現在はない。
  ・カワイケ 外島のカワイケヒガシの下流の方をいっているのである。
  ・ウチウラ(内浦) 内島をウチウラ・外島をソトウラ、南の田をオモテンダ・北の田をウランダと名付けたと伝えている。


 4 宮島(みやじま)

  ・ミヤマルミチ(宮丸道) 西石丸から東石丸に通じる道で亀田亮作宅より南側にあった。
  ・タカセイコ(高せいこ) 昔の石丸の火葬場の高台をいっている。


 5 川中島(かわなかじま)

  ・ナカノシマ(中ノ島) 昔は千保川の瀬であった所だが、庄川の氾濫によって押し流されてきた土が堆積して中州になった所だと言い伝えている。大部分は地味肥沃である。舟戸からの用排水に利便な地で、綿を栽培した地であろう。


 6 川西島(かわにしじま)

  ・カアラダ(川原田) カアラタンボともいい、現在居住しているのは1軒だけである。舟戸口用水が築造される以前は千保川の川原であったようである。城端線の東の住人達は、明治になってから内島から転居した人々の末裔といわれている。


 7 狐島(きつねじま)

  ・キツネバイ(狐バイ) 土地の人は狐島を「キツネジマ」といわないで「キツネバイ」といっている。左右の水路に挟まれた場所で最も遅く開墾された。鬱蒼とした樹林があったので狐が棲息していた。大正末期になっても狐がいたという人や見た人がいる。

 




【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】