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島 巌

2013.4.4

私財を投じて福野農学校を創立

島 巌

島 巌

天保9年〜明治12年
(1838〜1879)
出生地: 現 砺波市権正寺

 天保9年、砺波郡権正(ごんしょう)寺(じ)村(現:砺波市権正寺)御(ご)扶(ふ)持(ち)人(にん)を務める島家の長男として生まれました。
 安政4年、20歳のときに新田裁許となり、新田の開発促進や開発後の管理などを任せられました。
 明治5年、学制が発布されると、新川県第二十二大区の副戸長に任命され、翌年には各地域で次々と小学校が創立し、その地域の教育の普及・発展のために尽力しました。
 明治10年4月に庄川が氾濫し、東開発地区の堤防が決壊、田畑・民家が流された際に、復興のための救済に尽力したことにより、時の石川県令(県知事)より褒状を受けました。
 当時、砺波地方は年一回の稲作にしか向かない土地だったので、万が一、不作や洪水などにより、米の収穫が無くなると、貧窮に苦しむ農家が多く出ました。そこで農家・農村の生活向上ためには、米以外にも何か栽培する副業を得ることだと主張し、そのためには農業指導者の人材育成が急務であると考え、農学校設立のために活動していました。明治12年、初代石川県会議員として活動する矢先、コレラにかかってしまい、病床の中、学校設立のために山林や建物を寄付するという遺言を残して、明治12年9月4日逝去。志半ばでの無念の死でした。享年42歳。
 農学校設立運動は同志に受け継がれ、明治27年10月、砺波郡福野町(現南砺市)に富山県簡易農学校が設立されました。

ゆかりの場所
雪の中の巌浄閣(がんじょうかく)

雪の中の巌浄閣(がんじょうかく)

富山県立南砺総合福野高等学校 巌浄閣(がんじょうかく)
(元富山県立農学校本館)
 南砺市苗島443
 →明治38年に藤井助之Sによって建てられた。『巌浄閣』という名前は、昭和43年に建物が移築される際に、当時の吉田県知事が創立に尽力した島巌を顕彰して名付けた。
 国指定重要文化財

<参考文献>

『砺波市に映える人びと』
        砺波市教育会編集・発行
『富山大百科事典 上』
        北日本新聞社発行