『砺波の歴史』

  • 図
    2014.9.4
    U−B中世の砺波『中世砺波の信仰と文化』4
     中世の様子を直接今に伝える遺跡・遺物は、砺波にも多く残っている。雨風に晒され、崩れそうなその痛ましい表情を通し、数百年前の歴史を我々に語る石仏。この地の人々の信仰の深さを今に伝える仏像群・・・・・・。ここでは、砺波の中世文化財の内のいくつかを取り上げ、紹介してみよう。
  • 表1・表2 下PDFにもあり
    2014.9.4
    U−B中世の砺波『中世砺波の信仰と文化』3
     砺波と真宗とのかかわりは、本願寺5代綽如(しゃくにょ)が砺波郡山斐郷(やまひのごう)内井波で、1390年(明徳元)に瑞泉寺を建立したことに始まる。綽如は1393年(明徳4)にこの地で没するが、本願寺6代巧如(ぎょうにょ)の三男如乗(にょじょう)が綽如のあとをついで、瑞泉寺第2代…
  • 千光寺
    2014.9.4
    U−B中世の砺波『中世砺波の信仰と文化』1・2
     和田川を越え頼成(らんじょう)の森へ向う、その入口にあたる所が芹谷(せりだん)である。大昔、この地の人々が、この谷に自生する芹(せり)を食べて生活していたことが、地名の由来という。千光寺はその山中にひっそりと建っている。奈良時代に端を発する小寺と伝えるが、戦国時代の争乱による火…
  • 上・図1 下・図2
    2014.9.4
    U−A中世の砺波『武家社会の胎動と砺波』3
     地方の有力武士、いわゆる土豪の生活の形跡を、多少とも留めるものとしての「土居」(館ともいわれる)の跡が、砺波に2・3残っている。東般若にある「館(たち)の土居(どい)」と鷹栖になる「庄官屋敷(しょうかんやしき)」「小倉(おぐら)の土居」がこれである。 土居とは武士の屋敷であり、…
  • 上・倶利伽羅古戦場の遠望 下・牛飯岡碑
    2014.9.4
    U−A中世の砺波『武家社会の胎動と砺波』1・2
     平安時代も中期を過ぎると国司制度が腐敗し、各国の政治、治安が乱れる。それにともなって、暴力により他人の領地や権利を侵害するものが現れる。この中で、領主、荘官(しょうかん)は自分の土地を命を懸けて守るため、自ら武器を手に取る。武士は、こうして生まれた。さらにこれが、天皇の血を引く…
  • 2014.9.4
    U−@中世の砺波『中世砺波の荘園について』3
     油田は、庄川扇状地の扇央部(せんおうぶ)に位置する。扇状地では田畑へのみずの供給の都合のため、一般的に扇央部の開発が遅くなりがちである。 しかし、昭和37年にこの地から須恵器が発見されたことにより平安時代にはすでに集落があったことがわかる。中世になると油田は油田条(村)と呼ばれ…
  • 毘沙門堂
    2014.9.4
    U−@中世の砺波『中世砺波の荘園について』1・2
     中世において砺波平野を奔放(ほんぽう)に流れ、しばしばその流路を変えた庄川は、この平野の開発を極めて困難なものにした。たび重なる氾濫(はんらん)、開墾地の流失、扇状地特有の「ザル田」などの悪条件に耐え、この地の人々は粘り強く開墾を進めた。奈良時代の東大寺領荘園…
  • 模式図 東大寺領野地墾田地図
    2014.9.4
    T−C原始・古代の日本『家持と志留志』4・5
     743年(天平15)10月、聖武天皇は大仏建立の詔を出された。そして大仏完成後の東大寺経営の基盤をつくるため、各地に東大寺の墾田地を占定することになった。749年、越中にも東大寺占墾地(せんこんち)使の平栄らが来てその占定に当たった。その後の開田のようすは、10年後に図籍をつか…
  • 須恵器の製作地と使用地
    2014.9.4
    T−B原始・古代の日本『大和王権のころ』
     近畿地方に大和政権がそのいしずえをすえ、権力者のために一定の規格と築造方式をもった壮大な墳墓が建設されるのは3世紀の終わりから7世紀ごろまでで、これを石器時代という。市内池原(いけのはら)には、かつて古墳といわれた墳墓様(よう)のものが2基ある。丸山と狐塚がそれで、1949年(…
  • 厳照寺遺跡出土品
    2014.9.4
    T−A原始・古代の砺波『石器文化の遺跡』
     人々がまだ土器をつくることを知らなかった旧石器時代は、先土器時代ともいわれている。栴檀野地区の芹谷付近の遺跡には、先土器時代の人々がかなりの長時間、生活した跡がある。それは1万3千年ほど前のことであろうといわれている。また、同じ地区の増山高沢島遺跡からもこの時期の土器が出土して…