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E−1砺波の町や村

2014.5.20

(1)砺波地方にできた村と町

 砺波地方の開拓は、庄川の洪水の被害が少ない平野の周囲から進められ、次第に中央部に水田が開かられていきました。また、江戸時代より前には、砺波平野の南側にあった寺の門前に人々が集まって暮らし始め、井波町や城端町、福光町などの町ができました。また、人々が多く通行する北陸道に沿って、今石動町、立野町、中田町、などの宿場町もできました。

 江戸時代初め頃、五箇山を除く砺波地方の平野部には、およそ480の村がありました。やがて、庄川に新しく堤防がつくられたり用水が整備されたりして開拓が進むと、野尻野新村、徳万新村、増山新村など「新」の名がついた村や鷹巣出村など「出」の名がついた新しい村がいつくもできました。

 また、米や野菜などの農産物や暮らしに必要な衣類などを売り買いするために、三日や六日というように毎月一定の日に市場が開かれ、鎌や鍬をつくる鍛冶屋などの家々がある新しい市場町が砺波地方のあちこちにできました。また、近くの村々から出てきた人々が集まってできた杉木新町、福野町、福光新町、津沢町、さらに、街道に沿って戸出町や福岡町などもできました。

 砺波平野では、農家が一戸一戸散らばっていますが、これらの町もまた、およそ4〜5キロメートルほどの間隔をおいて網の結び目のように点在しています。

 江戸時代の終わり頃までに、砺波平野にある村の数は630ほどに増えました。それに五箇山の谷あいにあった70ほどの村を含めると、砺波郡全体では700ほどの村ができていました。

(2)産業と交通の発達
1916(大正5)年の砺波平野を走る鉄道の路線

1916(大正5)年の砺波平野を走る鉄道の路線

 明治時代になると、人々は職業を自由に選ぶことができ、住む場所を変えることもできるようになりました。砺波平野でも、米の売り買いによって財産を蓄えた人たちが町へ出て織物業や酒造業などの仕事をするようになりました。また、資金を出し合って銀行をつくったり鉄道を建設したりする人も出てきました。

 福野町と今の高岡駅の少し南の黒田との間に初めて走った「中越鉄道」(現在のJR城端線)は、富山県で最初にできた鉄道で、1898(明治30)年のことでした。翌年には、城端と高岡との間がすべて開通しました。この鉄道をつけるために努力したのは、鷹栖村(今の砺波市鷹栖)の大矢四郎兵衛など、富山県の西部に住んでいた人たちでした。この鉄道は、間もなく伏木港まで延長されて、砺波平野の米などの産物を伏木港から積み出したり北海道のコンブやニシンの魚肥などを砺波地方に運び込んだりする大切な輸送手段となりました。

 このようにして砺波平野の人や物の動きが活発になり、さらに1922年(大正11年)には、現在の砺波市庄川町青島と小矢部市石動間をつなぐ加越線もつくられました。この鉄道は、庄川につくられた電力開発のダム建設資材をはこぶなど大きな役割を果たしました。

 中越鉄道はやがて国有になり、通勤や物資の運搬に大きな役割を果たしていましたが、昭和30年以降の高度経済成長によって自動車交通が発達すると、鉄道を利用する人がしだいに減少していきました。加越線は、1972(昭和47)年になって廃止され、その代わりにバスを走らせることになりました。一方、城端線も1987(昭和62)年に国鉄が民営化されえて、JR西日本の経営となりました。砺波駅は1998(平成10)年に橋上駅舎に改築されたり南口がつくられたりするなど整備されましたが、油田や高儀のような小さな駅は、合理化のため無人化となりました。

【新しくできた杉木新町】
地図

地図

 江戸時代初めの1649(慶安2)年に、杉木村や太郎丸村など6つの村の百姓16人が、藩の奉行所に新しい町をつくりたいという願い書きを出しました。それは、長さ300間(約545メートル)、幅80間(145メートル)の広さの土地に100軒の家を建てて、ここで「三」と「九」がつく日(3日、13日、23日、9日、19日、29日)に市を開きたいという内容でした。藩は、早速この願いを聞き届けました。そこで、近くの村々から出てきた人たちが家を建てて、そこで店を開き、いろいろな商いを始めました。やがて、新しくできた町に藩の蔵や役所もできました。この杉木新町のことを、いつしか「出町」と言うようになりました。そこは、今の砺波市の本町一帯になります。下の地図(絵図)は、江戸時代の終わり頃の杉木新町の様子を描いたものです。

 地図をみると、中央に東町、中町、西町、が一筋に並び、西側は福野町や津沢町に続く三叉路の道まで家々が連なっています。また、南の方には井波町に向かう道があり、その道に沿って藩の役所の敷地もあります。東側には神明宮の前から左側に折れた道に沿って家々が並んでいます。用水路が何本も通っているのは、防火用や生活用水として使うためと思われます。


【砺波市立砺波散村地域研究所『砺波平野の散村「改訂版」』2001年より抜粋】