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「『五箇山から砺波へ』」の記事

1南砺市城端(その1)

2014.11.6

Tはじめに

『城端町の歴史と文化』より

『城端町の歴史と文化』より

 城端は、善徳寺とその門前町、五箇山との交易、特産の織物業で栄えた町として知られている。このようなかつての繁栄が、城端曳山祭(重要無形民俗文化財)に見られるような素晴らしい町民文化を今に残している。

 このような旧町部を核に、周辺の南山田、北野、蓑谷、大鋸屋村からなる城端町が昭和27年に成立し、平成16年には、城端・福光・福野・井波町4町と井口・平・上平・利賀4村の合併により南砺市が成立した。

U市街地の国道改修

@古地図による城端市街地のようす

 善徳寺が永禄2年(1559)城端城主荒木大膳の招請で福光より城端へ移転したことによる。(元亀3年(1572)、天正元年(1573)、慶長9年(1604)説もある『城端町史、善徳寺史』)。

 上町の市が開設。その後、慶長元年(1604)下町の市が開設されるが、慶長15年(1618)大火で退転する。貞享3年(1686)下町の市、享保9年(1724)上町の市が復興する。慶安4年(1651)加賀藩が改作法に着手する前の慶安2年(1649)西新田町開立、慶安3年(1650)東新田町が開立した。(『城端町史』)

宝永7年(1710)「城端絵図」(城端町に残る最古の町絵図『城端町の歴史と文化』)によると町は、西の山田川と東の池川に挟まれた段丘上にあり、善徳寺門前の道から北におれて西上町・西下町、並行して東上町・東下町の街路がある。また南に折れて大工町・新町へと続く。街路の特徴として、T字路、¬鍵型路など城下町に見られる防衛的機能が随所にみられる。

A街路の改良

 城端市街地を通る国道304号線の幅員は、5〜6mと狭く、屈曲の多い街路であったため一方通行やクランクが多く、出丸町広小路から上りは、東下・東上町を通り大工町へ、下りは、大工町から西上・西下町を通り出丸町広小路へ抜けるという一方通行であり、車社会には適応していなかった。また町中心部の活性化のうえでも国道の拡張改修が必要であると、昭和59年から地元で話し合いが進められていた。

 国道の改良には、国道を郊外へ迂回させるか、市街地を通すかが大問題であった。郊外へ移すと、観光客が素通りし、商店街が寂れる。市街地を通せば、商店街の再生や都市計画街路としての整備が必要となり、住居の立ち退きも必要となる。

 国・町当局や商店街や住民の話し合いにより、結局市街地を通すことになった。


表1国道304号城端市街地道路改良第一期事業の経過

 平成 6年 市街地改良決定
 平成 7年 第T期事業着工(出丸から大工町間)
 平成10年 善徳寺前交差点改良工事完成・えびす商店街竣工
 平成11年 西上町交差点〜広小路改良工事完成
 平成12年 1月 西町通り一方通行解消(道幅5〜6mから17mに拡幅)
 平成13年 大工町改良工事完成
 平成15年 出丸地区改良工事完成
 平成16年 国道304号線道路改築事業第T工区(出丸〜大工町)竣工式

『城端町行政史』ほか

 
 第1期工事出丸〜大工町間は延長800m、事業費90億円、幅員17mで完成した。道路改修により、各町内の世帯数は大幅に減少した。(表2)

 これにより西上町〜広小路間は道幅5〜6mから17mに拡幅され一方通行が解消された。

 出丸町は、東西が崖となっているが、西側の崖はすでに急傾斜地崩壊対策事業で国により擁壁工事がなされていた。東側の崖は、擁壁工事がなされていないため、崖の高さの2倍以上の水平距離を保ち、その外側に建物を建てるか、構造耐力上支障がない人口地盤を設置(3分の2は行政負担)して建物を建てなければならなかった。また、道路の均等勾配を保つため最大120cm掘り下げるところもあった。出丸町では、道路拡幅にかかる住居51戸の内、27戸が移転した。13戸が他の町内、11戸が県内、3戸が県内である。補償金は1戸を除き全額補償され、額は1億〜2千万円であった。

 新町・南町間は第2期工事(平成16〜18年度)で施工された。

表2道路改修による各町の世帯数の変化
工事に該当する町内だけ掲載(単位:世帯)

 7年12年 17年 
 出丸町  68  51  39
 西下町  70  53  53
 西上町  54  45  48
 大工町  33  30  25

V五箇山農民と城端との関係

@江戸時代の五箇山貸商人

 城端を経済的に特徴づけるものとして五箇山貸商人の存在がある。五箇山は古くから飛騨(岐阜県北部)とは交流があったが、砺波平野とは、高い山地にさえぎられ交通が困難であった。五箇山には、特産物として生糸・和紙などがあったが、食糧をはじめ生活に必要なものは、城端や井波に依存していた。冬季は雪のため平地との輸送は途絶えるため、冬ごもりの間の生活物資を購入するため、生糸や和紙など特産物の売却を条件として城端、井波の商人からお金を前借した。元禄6年(1692)の城端の「元禄六年組中人々品々覚書帳」によると、五箇山と取引をする商人が6軒あった。五箇山の農民と貸方商人との間は、生産物を独占的に買い取ることを条件に生活物資を前貸しするという経済関係で結ばれていた。

A近代の判方商

 五箇山貸は、近代では判方とよばれ、東新田町を中心に13軒の判方があった。五箇山への道は、藩政時代、東新田より、若林集落をとおり、唐木峠、朴峠をのぼり、梨谷を経て五箇山にでていたが、明治の中頃に東新田から上田集落を経て細尾峠にでる新道が完成した。

 大正初年には、五箇山は生糸・絹の生産で潤ったが、大正中期以降絹の価格が暴落し、五箇山経済は窮迫した。五箇山経済の変動はそのまま城端の判方に影響したが、やがて昭和10年代の米の統制によって、判方の営業は終わった。

【第56回歴史地理学会大会実行委員会 砺波市立砺波散村地域研究所 巡検資料『五箇山から砺波へ』2013年より抜粋】