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「『五箇山から砺波へ』」の記事

12−1明治以降の散村集落の変化−砺波市小島集落の事例−

2014.12.4

T小島集落の概要

出町 昭和8年

出町 昭和8年

 小島集落(村)は、砺波市の中心市街地(出町)から北へ約3km、庄川扇状地の扇中央の北部に位置する散村集落である。村の領域は約200分に1の勾配で穏やかに北に傾斜し、地形図では村の中央に東西に40mの等高線が走る。西には岸渡川、東には山王川、中央にはスベリ川が蛇行して北に流れていた。加賀藩の「高物成田畑帳」によれば、近世初期1646(正保4)の村高は古田316石600、新田149石170、免は2つ2歩2厘であった。それが幕末の1853年(嘉永6)には658石986となり、免は4つ1歩に上がっている。

 1872年(明治5)の戸数は65戸で全戸が農家であった。村の耕地65ヘクタール(町歩)のうち畑地は少なく0.3ヘクタールである。どの農家も家の周囲の約1ヘクタールの水田を耕作する砺波平野の散村地帯の一般的な水稲単作農村であった。村の姿を大きく変えたのは1968年(明治46)には住宅団地が出来、1990(平成2)に設立された小島第一営農組合に耕作を委託して農業から離れる農家が多くなった。

U明治8年(1875)の小島村の耕地と宅地と水路
明治8年頃の小島集落

明治8年頃の小島集落

 「小島村宅地調べ帳」、1875年(明治8年)の「小島村地籍図」、「小島村地価取調帳」等を基に作られたのが2図である。水田の多くは扇状地の微地形に支配されて、不整形で小さな面積の水田が多い。61戸はすべて農家であり、どの宅地も水田を灌漑する水路に沿って分布している。地下水が深く(12〜18m)井戸は限られ、多くの農家は永らく飲料水や生活用水を川水に頼っていた。この村に上水道が入ったのは1955年(昭和30)のことである。61戸のうち現存している家は40戸で、無くなった家が21戸ありその屋敷跡はいずれも水田に開かれている。

V昭和43年(1968)圃場整備前の小島集落
圃場整備前(昭和43年)の小島集落

圃場整備前(昭和43年)の小島集落

 基図は県営圃場整備事業の実施備えて林土地改良区が作成した圃場整備前の図である。

●図の宅地は明治8年以降に新に作られた宅地である。一部ではあるが畦畔を除去して大型化した水田もみられるが、扇状地の礫層の上に開かれた水田は耕土が少なく、高低差が多いこともあって耕地整理が遅れていった。トラクター、田植機が出始めると大型水田の造成が望まれた。明治8年の図に比べて福岡往来、県道坪野小矢部線、市道は拡幅されて自動車が通れるようになったが、農道や宅道の大半は荷車がようやく通れるような狭い道のままであった。通勤兼業が多いことから自家用車の通行が可能な道路の拡幅が望まれた。北東部の福岡従来沿いには中越レースの社員住宅団地の造成が始まっている。


農家数及び兼業農家数の推移
年度 農家数専業1種兼業2種兼業非農家数
 昭和29年@ 56         
35年  57 9 32 16 
45年  56  25 28 
55年 52  47  19 
平成2年 49  46  28 
7年 38  36  50 
資料:@「臨時農業基本調査」、他は世界農林業センサス・農林業センサス「農業集落カード」により作成