『五箇山から砺波へ』

  • 2014.12.4
    13五箇山・砺波巡検
    −色の箇所は説明のポイント〈平成25年5月19日(日)16時から18時半〉砺波散村地域研究所↓城端・善徳寺・五箇山交易・絹織物↓人喰谷・人喰谷・五箇山と里の交流↓梨谷トンネル出口休憩所↓・人形山・五箇山の人々…
  • 圃場整備後(昭和47年)の小島集落
    2014.12.4
    12−2明治以降の散村集落の変化−砺波市小島集落の事例−
     小島集落の圃場整備は県営圃場整備事業として1968年から1970年かけて工事が行なわれ、1972年換地を終えて事業は完了している。縦100m、横40mの面積40アール(a)大型水田が造成されて幹線道路は幅員6m、農道4m、宅道は3mに拡幅されて直線状となり、水路は用排水が分離さ…
  • 出町 昭和8年
    2014.12.4
    12−1明治以降の散村集落の変化−砺波市小島集落の事例−
     小島集落(村)は、砺波市の中心市街地(出町)から北へ約3km、庄川扇状地の扇中央の北部に位置する散村集落である。村の領域は約200分に1の勾配で穏やかに北に傾斜し、地形図では村の中央に東西に40mの等高線が走る。西には岸渡川、東には山王川、中央にはスベリ川が蛇行して北に流れてい…
  • 砺波平野の地形と条理遺構
    2014.12.4
    11砺波平野の水田開発
    1古代 砺波平野の開発は比較的古く、条里遺構の分布や東大寺墾田絵図の研究から古代にさかのぼることができる。砺波平野の条里遺構の分布は平野の周辺部に限られている。いずれも更新世および完新世初期に台地化した古い地形面で、開田当時すでに庄川・小矢部川の洪水の危険がなかった土地である。灌…
  • 図1砺波平野の散村景観
    2014.12.2
    10砺波の散村
     砺波市の散村(図1)と景観変化について説明する。散村とは、「民家が密集せず、孤立した民家(独立荘宅)が散在する村落」(「散村」『人文地理学辞典』朝倉書店)と、集落の形態から定義されるものである(図2)。日本には数多くの散村があり、「全国散居村サミット」が開催されたり、風景として…
  • 2014.12.2
    9観光振興
     砺波・南砺一帯は、古くは在地の豪族利波臣志留志が東大寺の大仏造営事業に関与したことから東大寺の荘園が開墾され、歴史の表舞台にその名が現れた由緒ある土地柄である(金田1998)。世界遺産にも登録された五箇山周辺をはじめ、現在文化庁が進める「重要文化的景観」の候補にもなり得る散村景…
  • 2014.12.2
    8松川除の築堤
     庄川が現在のように砺波平野の東部に片寄り堤防に沿って流れるようになったのは、寛文10年(1670)から正徳4年(1714)まで、45年の歳月をかけて築いた弁財天前の松川除が完成してからのことである。弁財天前の川除築堤以前の庄川は、飛騨・五ケ山地方を通って湯山・小牧の渓谷を離れる…
  • 第1図 1909年の瑞泉寺前から井波町門前
    2014.11.25
    7瑞泉寺と門前町井波
    1瑞泉寺の成立と盛衰 砺波平野の南東部に南北朝期に開闢し600有余年の歴史がある真宗大谷派井波別院瑞泉寺がある。 現在も同寺の門前には街並みが連なる。 本願寺5代綽如が1390年(明徳元年)に「図らずも一つの勝地を得た。ここを井波と称す。山が深く俗縁から離れ 里からも遠く人事まれ…
  • 図
    2014.11.25
    6庄川の電源開発
    1浅野総一郎 「おお黄金が流れる、黄金がながれている」1912(大正元)年に庄川の堤防にたった浅野総一郎が発したことばとされている。浅野総一郎は1848(嘉永元)年に富山県氷見郡藪田村(現富山県氷見市薮田)に生まれた。1871(明治4)年、24歳の時に事業に失敗し、逃げるように上…
  • 第1図 現在の利賀村周辺
    2014.11.25
    5利賀村の変容
    1利賀村の地域概況と歴史 富山県の南西部に位置し、岐阜県と県境を接する。2004年11月1日に、福野町、城端町、平村、上平村、井波町、井口村、福光町とともに市町村合併して南砺市となったため、行政区としては現存しない。一帯は大きく庄川、利賀川(庄川支流)、百瀬川(神通川支流)の3つ…