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9高波(たかなみ)その1 2016.5.31
高波地区の大字・小字一覧





























































 地区名 大字小字 
 高波 
1北高木

1飛地 2辻宮 3大宮 4法銘
  
2東宮森

1春日 2太郎島 3若宮 4地蔵堂 5沢開
6梨木 7諏訪前 8外島
  
3西宮森

1東嶋 2中嶋 3村中嶋
  
4江波

1宮福田 2善袋田 3村中 4向島 5揚島
6小川原 7青山
  
5荒屋

1片島 2二辻 3中島 4宮島 5下川原 6輪ノ内
7中川原 8馬場川原 9宮ノ島 10右衛門田島
11三郎場所 12京田辻
  
6坪北

1高野開 2茂平開 3四郎兵衛島 4中島 5八幡川原
6坊主辻 7上定塚 8下定塚 9上領 10砂田島
11下飛地 12三反島 13東島 14西島 
15助九郎島 16宮川西島 17上ノ島 
18跛島 19伝蔵開島
  
7南高木

1新又島 2村中島 3牛喰島 4善田
  
8新屋敷

1西島 2中島 3馬場島
  
9林

1砂田 2深田 3中田 4川原 5八枚田
  
10藤沢

1砂山 2小橋 3重兵衛島
  
11新栄町

1三反島 2狐川原

1. 北高木(きたたかぎ)


 1 飛地(とびち)

   雄神川の分流荒又川を貞享新開(1635)以後、東の坪北新村を飛び越して開拓し、飛地と称した。1〜156番地。


 2 辻宮(つじのみや)

   西荒又川の左岸。157〜897の2番地。

  ・ヨコエ(横江) 藤崎菊治宅南100mの西荒又川の湾曲部に堰を設け、取水した用水を横江川と称した。さらに中江川・中島川・オバタケの3用水に分水した北高木村の重要用水路であった。右岸の辻宮223〜231番地、左岸の法銘1556〜1570番地を経て山王川に至った用排水路。
  ・ナカエ(中江) 横江川より分水した北高木村東部の用水路。
  ・カギタ(鍵田) 仁木太三郎旧宅南60mにある鍵に似た田。
  ・ゲンニョンサダ(源右衛門田) 藤崎菊治宅の南の田。源右衛門が開拓、耕作した田。辻宮253番地。
  ・サンマイ(三昧) 藤崎秀二宅の北隣にある北高木村共有墓地。辻宮262番地。墓地。
  ・ナカノシマ(中の島) 横江川と中江川の間の地。
  ・ヤキバ(焼場) 藤崎秀二宅の西20mにある火葬場跡。今でも水稲ができ過ぎて倒伏する。
  ・セイヨンサヤシキ(清右衛門屋敷) 田。岡田俊三宅の東北80m。
  ・オオミチトイデマチ(大道戸出町) 吉岡外次郎宅(大宮1465番地)北80mの所より分岐して、高野章宅南より江守昭一宅の横を通り岡田幸三宅40mの地点から坪北新・竹村新を経由して戸出町に至る道。「オオミチトイデミチ」が正当名でなかろうか。
  ・フネダ(舟田) 岡田松子宅30m東にある2枚の田(辻宮677・678番地)を継ぎ合わせると舟の形となるので「舟田」と称していた。
  ・カンジャミチ(鍛冶屋道) 藤崎祐一宅30m南の分岐点から横江川を渡り、南高木村の鍛冶屋町(野鍛冶屋5〜6軒あり)を経て杉木新町に至る道。
  ・マタベサモトヤシキ(又兵衛元屋敷) 寿永2年(1183)、木曽義仲が上洛した時、「弓之清水」より「午飯岡」(ヒルメシガオカ=北高木と小島の村境。山王川の堤防であろう)で小休止した時、北町の又兵衛が義仲に柿を献上したと伝えられる。柿は「木曽柿」と称し、同家の屋敷内や前の西荒又川の堤防上に植えられていた。陰樹伐採・圃場整備等により柿の木はなくなった。


 3 大宮(おおみや)

   辻宮の西。898の1〜1545の2番地。


 4 法銘(ほうみょう)

   1546〜1929番地。辻宮・大宮と山王川の間。

2. 東宮森(ひがしみやもり)

1 春日(かすが)

   田・畑・山林。春日社の「春日」を地名とした。1〜817番地。

  ・トジル(戸瀋) 田・畑・山林。村の東南にある春日用水取入口付近の地名(1〜320番地)で、承暦年間(1077〜1080)以後の開拓地。
  ・ヒトマブチ(一間渕) 田・畑・山林。南部の春日用水縁にある承暦年間以後の地名。321〜344番地。
  ・アライブチ(荒井渕) 田・畑・山林。南部の春日用水縁にある承暦年間以後の地名。345〜371番地。
  ・シンメイワリ(神明割) 田・畑・山林。春日神社より150m東南の地。658〜685番地。承暦の頃には「神明社」があった所である。
  ・ウマステバ(馬捨場) 木曽義仲の上洛時に「午飯岡」で小休止した時、小高い林の中に軍馬を繋いでいたところ病傷死の馬が出たため、発進の時、死馬を置き去りにしたので、誰いうとなく「馬捨場」といい、その後、死馬の捨場となった地。
  ・フキダ(不喜多) 畑。円長寺の50m南。承暦(1077〜)の頃、この地を開拓した人々の守護神「春日社」を祀った地。816〜817番地。神明社・若宮を春日社に合祀して「春日神社」としている。昔の宮司は下蓑村佐伯因幡氏、現在は野村島村野村氏。
  ・キタニリカエシ(北弐里返) 春日の北部一帯を指し、承暦年間以降の地名。372〜848番地。
  ・ケイサヤシキ(喜兵衛屋敷) 春日の東部。松永昌一宅前にいた喜兵衛が天保年間の凶作で離村した屋敷跡。421番地。田。
  ・サイキサマヤシキ(佐伯屋敷) 春日の東部。松永昌一宅北30mの地に、幕末の頃、円次右衛門が医業の傍ら寺小屋を建て村内外の子弟を教育した。教え子達が先生の遺徳を慕って地蔵堂境内に筆塚(石碑)を建立した。円次右衛門の子、秀作は医業を継ぎ、苗加村の河辺正三大将の従姉妹を妻としていたが子供がなかった。田。
  ・ヨソゴロサヤシキ(与三五郎屋敷) 春日の東北部にいた与三五郎が天保年間の凶作に堪えかねて離村した。その屋敷跡。433〜438番地。田。
  ・イッツァウサヤシキ(市三郎屋敷) 田。
  ・ギヘイサヤシキ(儀兵衛屋敷) 田。
  ・サジョンサヤシキ(佐次右衛門屋敷) 田。
  ・ニジロサヤシキ(仁十郎屋敷) 田。
  ・ヨソエンサヤシキ(与三右衛門屋敷) 田。
  ・ヨヘサヤシキ(与兵衛屋敷) 以上6家は春日地内に居住していたが、天保年間の凶作に離村した。その屋敷跡は不明。


 2 太郎島(たろうじま)

   田・畑・山林。村中央部を流れる岸渡川・江波川の東北の地。851〜1377番地。豪農太郎右衛門が居住していたので、この地名を付けたらしい。

  ・ムラナカ(村中) 田・畑・山林。村中央部の北東にあった承暦年間以後に開拓した地をいった。851〜1069番地。
  ・ジョウヅカ(定塚) 田・畑・山林。太郎島の中央部にある承暦年間以後の地名をいった。1070〜1162番地。
  ・オオツカ(大塚) 田・畑・山林。太郎島の北部にある承暦年間以後の地名をいった。1163〜1245番地。
  ・ロクゾウヅクリ(六蔵作) 田・畑。太郎島の中央にある六蔵が開拓耕作していた地をいった。1246〜1299番地。
  ・タロエモンウシロ(太郎右衛門後) 田・畑。太郎島北部にいた豪農太郎右衛門の屋敷後方の地域を承暦年間以後に地名とした。1300〜1377番地。
  ・サブロエンサヤシキ(三郎右衛門屋敷)
  ・シロウヤシキ(四郎屋敷)
  ・マゴクロサヤシキ(孫九郎屋敷)
  ・ヨソエンサヤシキ(与三右衛門屋敷) 以上の4家が太郎島にいたが、天保年間の凶作により離村した人達の末裔が北海道に移住したと伝えている。離村者はこの他にも数人いた。その屋敷位置は不明で田となっている。


 3 若宮(わかみや)

   田・畑・山林。岸渡川の左岸、村の北部にある地。1378〜1616番地。

  ・ワカミヤ(若宮) 田。岸渡川の左岸、村の北部に祀っていた若宮(八幡社)一帯で承暦以後の開拓地。1378〜1467番地。
  ・ナナマイダ(七枚田) 田。若宮の中央部で承暦年間以後の地名。1468〜1476番地。
  ・ニシマエダ(西前田) 田。若宮の北部、承暦年間以後の地名。1477〜1600番地。
  ・ミチシタワタリダ(道下渡田) 田。若宮の西部、承暦年間以後の地名。1601〜1616番地。
  ・ジンモリヤシキ(神守屋敷) 伊藤徳仁宅の北、約3反の屋敷であった。1469番地。幕末の頃、加賀藩の役人(五箇山紙の役人と伝えられている)の居屋敷。明治中期に北海道に移住した。
  ・オタチヤマ(御舘山) 東宮森村と東中村の村境にあった舘域跡。


 4 地蔵堂(じぞうどう)

   田・畑・山林。西宮森村東島と中島の中間にあった飛地。1654〜1771番地。
  
・トオダ(遠田) 田。地蔵堂の西、承暦年間の地名。1617〜1653番地。
・アラドウ(荒堂) 田。遠田の中に建てられていた社祠跡らしい。1617〜1630番地。
・ジゾウドウカミ(地蔵堂上) 田。西宮森村東島の西にある飛地。1704〜1771番地。幕末頃まで火葬場があった。
・ジゾウドウシモ(地蔵堂下) 田。地蔵堂上の下。1772〜1783番地。


 5 沢開(さわびらき)

   田・山林。地蔵堂の下流で明治年間に開拓された地。1772〜1783番地。


 6 梨の木(なしのき)

   沢開と同時に開拓されたが、梨の大木があったので地名とした。1484・1485番地。


 7 諏訪前(すわまえ)

   田・畑・山林。地蔵堂の西に連なる飛地。1786〜2472の1番地。諏訪社があった。2167番地。

  ・マタイチサヤシキ(又市屋敷) 2136−2番地に今江惣右衛門の分家(又市)が居住していたが、明治末期に北海道に移住した。その後は市山一男宅となっている。
  ・タカギヤヤシキ(高木屋屋敷・市山久八) 北高木村の市山久八の分家が市山正義宅の西南にあったが、明治初年に金沢に移住したと聞いている。
                             −笹島安兵衛
            −高 木 屋            (西宮森)
             (江波=市山)
津川佐次兵衛−市山久八−         −津川太兵衛 ――佐々木与四兵衛
 (西中) (北高木)           (西宮森)   (西宮森)
            −高 木 屋  −
             (東宮森=市山)        −西村次郎蔵
                     −市山孫七    (西宮森)
                      (東宮森)


 8 外島(そとじま)

   田・山林。西宮森村下島の西(高波地区の最西端で小矢部市との境)の飛地。2413〜2684番地。

3. 西宮森(にしみやもり)


 1 東嶋(ひがしじま)

   田。1〜707・1617番地。

  ・フルミヤ(古宮) 笹嶋賢一宅の南西付近。419番地。寿永2年、木曽義仲が俱利伽羅合戦に行く途中、西宮森八幡宮に立ち寄り必勝祈願したとの伝承がある。
  ・カミナリデン(神成田) 笹嶋賢一宅の南西に当たる八幡宮付近の田。八幡宮の社領と言い伝えている。
  ・タツノボリ(龍昇) 善名川から七社用水の取入口付近で右岸547・左岸588番地。ここから竜が天に昇ったという伝承のある所。
  ・キヨゴジマ(清児嶋) 平野希三久宅の北より七社村境までの一帯。
  ・ナガドブ(長溝) 湧水池。平野三郎宅の南に宮野仁平、市山孫七、大藏覚太郎、佐々木宇八郎の4名の共有地「ナガドブ」があった。夏の旱には、若林口用水に未加入のため、田に入れる水がなかった。長溝の湧水を活用して平田川に注がせ、平田川の下流で堰止めて村中川に移し、村中嶋と諏訪前の田を灌漑していた。現在は東中地内となっている。
  ・ジロゾウサヤシキ(西村次郎蔵屋敷) 津川太平の分家。明治中頃に北海道に移住。現在は東京都大田区上池台、西村直作家である。この空屋敷に大江常次郎が入居。その後、石動町東福町に転住し料理旅館業を営む。田。443・444合併番地。
  ・ヨザインサヤシキ(津川与左衛門屋敷) 笹嶋賢一宅の東。明治中頃、北海道に移住。田。237番地。
  ・ヨイチベイサヤシキ(高嶋与市兵衛屋敷) 明治中頃、離村した。後は平野昌礎宅となっている。宅地。429番地。
  ・セイヨンサヤシキ(高嶋清右衛門屋敷) 田。五社村に転住。後に東中村宮井次郎右衛門が入社した。


 2 中嶋(なかじま)

   田。949〜1040番地。

  ・アオシマ(青嶋) 平野専太郎宅付近から善名川と八幡宮の後の川との落合一帯。749〜1030番地。田。
  ・ナカジマ(中嶋) 青嶋の下流。1004〜1040番地。
  ・ヂゾウドウゲンヤ(地蔵堂原野) 田(1690〜1695番地)。往昔、この地に火葬場と地蔵堂とがあった。昭和33年頃、道路拡張され、現在の墓地に地蔵堂を移転して開墾された。
  ・リキチサヤシキ(鹿嶋理吉屋敷) 宅地。884番地。明治中頃、離村して北海道へ移住した。後は平野三郎宅となっている。


 3 村中嶋(むらなかじま)

   田・畑・原野。

  ・ゴボウダ(御坊田) 大江美年子宅前の田。年代不詳であるが、円長寺の堂塔があったとされている。兵火により円長寺が焼失し、現在地(東宮森村)へ移転した跡地なので御坊田といっている。
  ・マツノキノシタ(松木の田) 佐々木正宇宅の南にある田。1407番地。木曽義仲が俱利伽羅攻略の時、巴御前か葵御前か、またはその他の妻妾が死産したので、その嬰児を悼み塚を築き松を植えたと伝承されている。
  ・ツカダハバ(塚田幅) 佐々木正宇宅の南の田(松木の田)より伊藤友吉宅の北まで一帯を指している。1380〜1407・1408番地合併。
  ・ヤジャン(野蛇) 平野与四雄宅の北の田。1507番地。蛇の穴から水が湧き出ていた。その水は五社用水として五社村の田圃を潤していたが、圃場整備の時に消滅した。
  ・キツネアナ(狐穴) 狐が穴を掘って棲んでいたという平野与四雄宅の背戸から東宮森村領外島境の川まで。その下は西森勇治宅の背戸までの一帯の地名をいった。
  ・ヨソイッツァヤシキ(伊藤与三市屋敷) 田。1548番地。大江美年子宅の西にあった。明治中頃、北海道へ移住したが、音信不通。
  ・イヘサヤシキ(笹倉伊平屋敷) 明治中頃、北海道に移住した。釧路市大楽毛4丁目に住んでいる。1165番地。現在は平野与四雄宅である。
  ・ヨシタロサヤシキ(大藏由太郎屋敷) 大藏敏之宅の分家で隣の小矢部市五社に転住している。
  ・イシノシヤヤシキ(津田栄太郎屋敷) 戸出市野瀬より入百姓して1187番地にいたが、大正末期に小矢部市福町に転住した。





【砺波市老人クラブ連合会発行「砺波市の地名−郷土の字・由来調査事業報告書」1993年より抜粋】

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