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11砺波平野の水田開発 2014.12.4
T砺波平野の条里遺構

砺波平野の地形と条理遺構

1古代

 砺波平野の開発は比較的古く、条里遺構の分布や東大寺墾田絵図の研究から古代にさかのぼることができる。砺波平野の条里遺構の分布は平野の周辺部に限られている。いずれも更新世および完新世初期に台地化した古い地形面で、開田当時すでに庄川・小矢部川の洪水の危険がなかった土地である。灌漑用水を山麓の小川や谷間の溜め池に求めたため、必然的に一地域の面積は限られている。主な地域をみると、旅川上流の旧井波町高瀬一帯、福岡町の西を流れる明神川を利用した一帯、渋江川下流の植生・蓮沼・安養寺・名畑、小撫川下流の法楽寺・川合田などに分布している。また、庄川扇状地末端の湧水を利用することができる旧福岡町蓑上・村中・木舟の一部にも条里遺構がみられる。

 庄川扇状地には条里遺構はまだ見当たらない。しかし、下中条・坪内・大坪など、条里に関係のある地名が扇状地の東側を中心にみられる。また、759年(天平宝字3)および767年(神護景雲1)につくられた東大寺領墾田絵図にみられる砺波郡の石粟。伊加留岐・井山の3庄は扇状地上の庄川沿岸にあったと考えられる。

2中世

中世の開発を示す資料は乏しい。庄川扇状地では、東大寺領般若庄、安楽院領油田の庄が知られており、これらの地域には五輪塔が広く分布している。砺波平野全体の開発状況を示す最初の資料である。「元和5年(1619)利波郡家高の計帳」によれば、当時砺波郡には429の村があった。旧扇状地の一部や旧流路を除いてすでに多くの村が成立しており、中世末から近世初頭にかけて集落の核ができあがっていたことが知られる。

3近世

 砺波平野の近世初頭の開発は、旧流路の開発に始まるが、開拓の方法はすでに成立していた村々からの出作りの形で行われる場合が多かった。旧河道の一部を残して扇状地の開発が行きわたると、やがて芹谷野・山田野・野尻野などの周辺台地の開発が行われるようになる。芹谷野は西側が20〜30mの崖で庄川扇状地と境し、東側は和田川によって庄東山地から隔離されている、南北10km余りの細長い台地である。台地上には縄文遺跡や須恵器の窯跡が分布しており、中世末期には増山城の城下町増山などがあったが、大部分は水不足の荒れ地であった。芹谷野用水の開削に着手したのは1663(寛文3)のことである。芹谷野用水は庄川弁財天付近から取水し、芹谷野に通じ、さらに射水平野に至る30kmの用水である。用水の開通と同時に、周囲の村々から入植が行われ、1689(元禄2)までに25の新村が成立し、4,100石の開拓が行われた。山田野は小矢部川と山田川に挟まれた台地で、一部に藩政初期の新村があったが、大部分の開拓は1673年(寛文13)に山田野新田用水が開削されてからである。また、野尻野の開発は庄川の水を計画的に利用している最も古い型の開拓で、近世以前の集落から藩政時代後期の新村までが並んでいる。

 このように近世以降の開発は、前期には中世の技術では開発できなかった周辺台地が対象となり、また野尻川・中村川・新又川の川跡が開拓され、後期には千保川の開拓が最後のものとして行われたのである。

【第56回歴史地理学会大会実行委員会 砺波市立砺波散村地域研究所 巡検資料『五箇山から砺波へ』2013年より抜粋】

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