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親王塚 2014.8.18
般若野荘の領主徳大寺実道の塚とされる

2014.6.13撮影

平成23126登録


薬勝寺(砺波市安川)

 砺波市安川の臨済宗薬勝寺の南側、「ラントバ」といわれる薬勝寺代々の墓地のほぼ中央に約5メートル四方の塚があり、その上に宝篋印塔があります。この塚を「親王塚」と称しています。

 平安末から戦国時代にかけて、旧庄川の東側一帯には、京都の公家徳大寺家の荘園盤若野荘が展開していました。12世紀初頭、徳大寺家領として成立した当初は広大な領域であったと思われますが、武家勢力の進展に伴い、下地中分によって地頭方と領家方に区分され、領家としての徳大寺家の荘園経営は次第に困難になっていきました。そのような状況のなかで文明6年(1474)、領主である徳大寺実淳は京からはるばる越中へ下向しました。しかし、その回復はかなわなかったものか、さらにその孫実通は天文3年(1534)と同14年(1545)に越中へ下向しました。そして天文14年の下向の折に、現地で従者ともども殺害されてしまいました。その実通らを葬ったと見られるのが親王塚であり、薬勝寺の南の公卿塚がその従者の墓といわれています。

 このような史実から生まれたと思われる伝承、すなわち、京から下った親王が安川村付近に侘び住まいしていたという話は、『越中古城記』『肯搆泉達録』『越中志徴』『越の下草』(流布本)など江戸時代の地誌類に記されています。

 なお、薬勝寺の縁起では、応仁の乱によって京都を焼け出された御花園院の皇子淳良親王が安川の里に3年間侘び住まいされていたのを、増山城主が文明3年(1471)ひそかに殺害し、同寺の南に墓所を営んだものであるといわれています。

 薬勝寺では毎年6月13日に大般若会を行っていますが、これは彼らの霊をなぐさめ、般若郷の豊穣を祈る為の行事とされています。

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