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5−2川とのたたかい 2015.1.30
文久2年(1862)佐藤組の結成

金山家文書 立山町郷土資料館蔵

佐藤助九郎は、文久2年(1862)、16歳の時に佐藤組を結成し、同年、藩特命で常願寺川の工事を請負ったとされている(『110年のあゆみ』)

 今回の調査では、助九郎が藩から請負ったという川除工事に関する史料は発見できなかったが、同じ開発村の和兵衛と八三郎と同じように常願寺川の工事にたずさわったと推定できるので、ここに展示した。

 また、下に示した文書も佐藤組とは直接関係ないが、藩から直接他国へ土方人夫(黒鍬稼)の派遣を要請されることもあった例としてここにあげる。

 

文久2年(1862)6月10日常願寺川日置村領川除普請請負に付見図書

安政5年(1858)の大地震以降、常願寺川(川除堤防)工事は3年後の万延元年(1860)にひと段落したが(前項の絵図)、その後も常願寺川は出水をくり返した。2年(1862)、砺波郡の川工事請負人である開発村和兵衛が下記のような工事費用の見積書を提出している。砺波郡の請負者として、このほかに同村八三郎、大清水村磯右衛門、中条村長兵衛らの名がみえる。


 

元治元年(1864)11月開発村・柳瀬村・柳瀬新村より50人京都へ黒鍬稼に遣わすよう申渡

加賀藩が開発村などの土方人夫(黒鍬稼)の徴発を命じた文書。京都に土方仕事があるから、開発村・柳瀬村・柳瀬新村から50人、踏鋤・鍬・ナタ・鎌を持たせて金沢へ出向くようにとの内容である。




【砺波郷土資料館 『第31郷土先人展 庄川の川工事が生んだ実業家 「佐藤助九郎展」』2008年より抜粋

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