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7瑞泉寺と門前町井波 2014.11.25
 

第1図 1909年の瑞泉寺前から井波町門前

1瑞泉寺の成立と盛衰

 砺波平野の南東部に南北朝期に開闢し600有余年の歴史がある真宗大谷派井波別院瑞泉寺がある。

 現在も同寺の門前には街並みが連なる。

 本願寺5代綽如が1390年(明徳元年)に「図らずも一つの勝地を得た。ここを井波と称す。山が深く俗縁から離れ 里からも遠く人事まれなり」云々と四至のもとに時基を井波に定めた勧進状(国重文)をしたためる。

やがて、近くの東大寺の荘園高瀬庄へも一向宗の勢力が拡大する。1429(正長2年)には東大寺学侶方の高瀬荘地頭は、一向宗徒が地下人と結託して年貢米納入を拒否し土一揆を企てたと東大寺文書にある。

 その後、本願寺8代蓮如は越前の吉崎に拠点を構え、北陸に布教活動を進める。

 加賀では二俣(金沢市)に本泉寺を、越中には井波瑞泉寺に2男蓮乗を配置し布教基地とした。1475(文明7年)に蓮如は井波瑞泉寺も訪れた。間もなく瑞泉寺は地元武士団との抗争に打ち勝ち、次第に勢力を郡内外に拡大し、寺域を城郭に構え、門前は寺内町として発展していった。

 戦国武将佐々成政の攻略を受けた瑞泉寺は戦禍で炎上し、北野(現南砺市北野)に退転した。1585年(天正12年)閏8月、秀吉は三か条の禁制で瑞泉寺を保護した。

 加賀や能登、そして越中が前田家の支配下に入ると、瑞泉寺は1613年(慶長18年)に現在地に寺地を拝領して堂宇を再建する。町屋も復旧して現在の門前町としての携帯をとるようになった。(注1)



2寺域を城郭化して

 瑞泉寺寺域の東方に周囲を土塁が囲む中世の平山城遺構が残る。

 瑞泉寺の旧地で、武将佐々成政の進攻で破滅したが、佐々成政の占拠4年で廃城となる。

 現在も周囲を土塁が巡り、内部に郭跡や内堀などの防御遺構が残る。本丸跡とする一帯は綿貫家や井波八幡宮が鎮座し、東方には招魂社の社がある。また瑞泉寺の社名由来を伝承する臼浪水の遺構も残り、文人墨客の来訪も多い。

3井波町と連担村

 井波町域に隣接した連担村として機能した松島村・藤橋村・山見村・北川村の四か村がある。1710年(宝永7)の戸数は井波町228軒・藤橋村49軒・松島村10軒・山見村8軒とある。

いずれも井波町と村々が相互に商工業機能を補完し、隣接する村々には屋号も有する工商業者もいた。例えば、松島村には糀屋など13軒あったが、それは村戸数の56%を占め、北川村では44軒で88%の家に屋号があった。

 また、井波町と隣接村の機屋惣代が不況に対応して産物銀の貸与を藩上部に願い出た折に、隣接村の業者も共同で願いに名前を連ねた例があり、町と隣接村が対等に商いを行っていたことがわかる。(注2)



4特色ある地場産業−蚕種業と木彫刻−

近世の門前町井波では、加賀藩から屋敷地を拝領した国役大工10人を核とする宮大工郡が、瑞泉寺を始め地域の寺社建築の役割を果たした。さらに在郷町の機能と五箇山の谷口集落としての役割を果たし、絹織業や蚕種業も盛んであった。

 灌漑用水の利便な砺波平野部とは異なり、山麓地帯の井波町は水利の悪い条件に対応して、藩政末期から近代にかけて畑地での桑栽培を図り、蚕種業に活路を見い出した。明治に入ってからは、郵便による通信販売制度を活用する販売方法の採用を図り、飛躍的に販売量が拡大した。第3図に見られるように1921年(大正10)から1930年(昭和5年)期の富山県蚕種製造者の大部分は井波町と八尾町の十数軒の個人業者が占めていた。しかし、太平洋戦争下の戦時体制で、桑園の縮小と絹の需要減少で蚕種業は壊滅した。

 また、明治期から民間需要に応じた欄間彫刻が建築業から分離して「井波彫刻」という商標を持つまでに発展した。

 この木彫業は、従弟制度による技能養成で一躍盛んとなり、全国各地の曳山彫刻やだんんじりの彫刻製作までに発展した。また漆芸も発達し、木彫部門とともに民間の要望のみに満足せず、作家として日展などの中央展に応募し多数の入選や入賞者を出し、審査委員級の地位を獲得するまでに至っている。(注3・4)

5寺内町から門前町へ

 瑞泉寺の門前から北方に向けて街並みが続く。その八日町通りと交叉するように東側に六日町、西側へ三日町の通りが扇状に延びている。

 街並み家屋の板葺き石置き屋根も、1961年(昭和36)頃から瓦葺き屋根に変化したが、家屋は殆ど資産家造りで、前側は「しとみ戸」や「むしこ格子(虫籠格子)」で家屋が防御された「しもたや(仕舞屋)」の通りであった。

 1980年(昭和55)から町行政は観光対策として、その「しもたや」開放を図る。八日町通りを核として指定地域の店舗化を図り、彫刻業者や土産物店、飲食店の誘致を進め、店舗を貸与する家主に補助金の交付を実施した。(注4)

 これらの施策に加えて、観光大型駐車場を設置して観光客の誘致を図った。訪れる観光客(audience)の面前で彫刻をする(performer)景観が演出されるゴッフマンのドラマトゥルギー論に基づく門前町の新景観構成が意図にあった。

さらに、瑞泉寺への観光客に対応して、町は、門前町の修景を図るために旧国土庁の伝統的産業モデル事業を行った。1983年(昭和58)から伝統的イメージ醸成するために行った石畳み舗装、褐色の街路灯設置、電話線の地中埋没化などの修景がそれを意味する。(注6)


【第56回歴史地理学会大会実行委員会 砺波市立砺波散村地域研究所 巡検資料『五箇山から砺波へ』2013年より抜粋】

注1:千秋謙治『瑞泉寺と門前町井波』桂書房 2009

注2:千秋謙治「砺波郡に於ける近世在郷町と隣接村の構造」砺波散村研 研究紀要 19号 2002

注3:日向 進「日本建築学会計画系論文報告集」417号 1990

注4:須山 聡「富山県井波町における木彫業の技能者生産組織」人文地理学研究XX 29-44 1996

注5:千秋謙治『井波の商と工 その軌跡』井波町商工会 1991

注6:須山 聡『在来工業地域論−輪島と井波の存続戦略−』古今書院 2004

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