743年(天平15)10月、聖武天皇は大仏建立の詔を出された。そして大仏完成後の東大寺経営の基盤をつくるため、各地に東大寺の墾田地を占定することになった。749年、越中にも東大寺占墾地(せんこんち)使の平栄らが来てその占定に当たった。その後の開田のようすは、10年後に図籍をつかて一たん報告された。そしてさらに767年11月には専当国司利波志留志が地図をつけて墾田地の状況を報告している。これによって当時の越中国における東大寺荘園の開田状況がわかる。当時、砺波郡、射水郡にそれぞれ4か所、新川郡に2か所荘園があったが、その中で砺波郡の同寺荘園の開発が進んでいたようすがうかがえる。さて、砺波郡の墾田地(荘園)は4か所で、その位置を図示すると左図のようになる。
○杵名蛭(きなひる)庄は井波町今里、川原崎、戸板あたりとされ、北には公民の口分田があったので、砺波でも761年までに班田が行われるようになっていたことがわかる。
○井山(いやま)庄は雄神橋から三谷までの地域で、次の伊加流伎庄と同様、現在の庄川本流の下も含むと考えられる。
○伊加流伎(いかるぎ)庄は現庄川の河床も含むその西側で、柳瀬、下中条方面にあったと考えられる。溝(用水)がないので開田率も低い。12世紀には狩城庄として文書に見える。
○石粟庄は芹谷野段丘の下に広がる庄東平野の一部で、東般若地区の東保から高岡市中田町今泉のあたりであろう。ここは橘奈良麻呂の所有地であったが、彼が藤原仲麻呂の打倒に失敗して没収され、政府があらためて東大寺へ施入(移管)した荘園である。
8世紀頃の東大寺荘園地図に記されている砺波地方の墾田占有者は、中央官人と皇族で、地元豪族では砺波臣志留志と蝮部千対とがある。
橘奈良麻呂−石栗村に。大原真人麿(天武天皇系の貴族)−伊加流伎野の西に。後、この地は恵美比多比(えみのひたい)の土地になる。門部王(かどべのきみ)(真人麿の弟)−井山村墾田の西に。
利波臣志留志−伊加流伎野の南に。後、これが井山庄になる。
蝮部千対−井山村墾田の南に。
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