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U−@中世の砺波『中世砺波の荘園について』3 2014.9.4
3油田条「扇状地中央部の荘園」

 油田は、庄川扇状地の扇央部(せんおうぶ)に位置する。扇状地では田畑へのみずの供給の都合のため、一般的に扇央部の開発が遅くなりがちである。

 しかし、昭和37年にこの地から須恵器が発見されたことにより平安時代にはすでに集落があったことがわかる。中世になると油田は油田条(村)と呼ばれ、庄川の旧流路をはさんで般若野荘と対する形で、その西側に広がっていた。

 この油田条の範囲を示す資料は、現在残されていない。しかし、江戸時代の「三州地理志稿」では木下・十年明・油田大坪・則安島・中村・町村・三郎丸・地仙・宮村・千保・堀内の11か村にまたがっていたと孝証している。

3油田条「油田条の領主たち」

 油田条が歴史上に登場するのは、1278年(弘安元)の鎌倉御家人平賀惟長(ごけにんひらがこれなが)の書状においてである。これは、安芸国高屋保(あきのくにたかやのほ)・上総国(かずさのくに)さくらやの郷とともに、越中国油田条を弟の惟致(これむね)に与えることを記したものである。この頃日本は、蒙古(もうこ)の来襲に対し、全国が総力をあげて立ち向かっていた。平賀氏はもともと出羽国(でわのくに)平賀郡(秋田県平鹿郡)を根拠地としたが、この地に異国警固番役(いこくけいごばんやく)のため西国へ移った。これがきっかけで、平賀氏はその後、安芸国(広島県)に本拠を置くようになる。このような平賀氏の事情はあったが、油田条はその後も平賀家の惟致から子の貞泰へ、貞泰から弟の惟藤(これふじ)へ、そしてさらに貞泰の妻安芸(あき)の尼、兼宗(かねむね)へと伝えられている。しかし、1338年(暦応元)の兼宗から貞宗への書状には、油田条の名がない。これ以降、油田条はどうなっていったのだろうか。

 さて、鎌倉幕府は1333年(元弘3)に足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らによって滅ぼされ、後醍醐天皇の建武の新政が始められる。しかし、これも尊氏の謀叛(むほん)により3年程度で終わる。この後、尊氏が室町幕府を開き、これに対後醍醐天皇が吉野に南朝を創ったため、世に言う南北朝時代となった。

 このような政治変化に応じて、油田条の支配も交代した。すなわち、鎌倉幕府の滅亡のときに油田条は鎌倉御家人である平賀氏の支配から離れ、それが南北朝頃、足利尊氏により部下の町埜善照(まちのぜんしょう)に恩賞として与えられた。そして、この町埜が、油田条をさらに太秦安楽院に寄進した。安楽院は現存しないが、もとは臨済宗の禅寺である。当時の幕府の禅宗保護政策の中で、尊氏を初めとする歴代将軍によって、安楽院による油田条の支配が保証されていたのである。

3油田条「油田条をめぐる相論」

 室町時代の中頃、油田条に対し、冷泉家(れいぜいけ)がその所有権を主張する。このため、安楽院と冷泉家の間で相論(土地に関して、権利の正当性を争うこと)が起こった。これはどうも足利義詮(あしかがよしあきら)が、その原因を作った張本人のようである。つまり、彼が一方でみずから安楽院の油田条支配を認める御教書(みぎょうしょ)を出しながら、他方では冷泉家へも同様の証書を出したらしい。このため、油田条は複数の領主が認められてしまったのである。この相論は、この後、いろいろな論議を経ながら120年余も続いた。そして、1490年(延徳2)9月正式に幕府に提訴された。これに対する幕府の裁許状は現存しないため、確かな結末はわからない。

【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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