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Aチューリップ栽培の始まり 2014.5.8
チューリップ栽培の始まり

 庄下村矢木の水野豊造は、大正七年に親戚の南野尻村苗島の大窪久太郎、同村年代の城宝清治と共にチューリップ球根やボタンの苗を購入し観賞用に栽培し始めた。たまたま切り花として販売したところ予想以上の高値で売れさらに茎が彼上がってから掘り取った球根が買ったときよりも肥大していることに気づき、球根として販売することを思い立った。当時県の穀物検査官であった四谷順三の教えも受けるようになり、大正12年ごろから水田裏作として本格的な球根生産に着手するようになった。

庄下球根花卉実行組合の設立

 大正13年、水野豊造は庄下村で球根栽培を目指す13人の仲間とともに庄下球根花卉実行組合を結成した。


設立当時の組合員
 根尾千治 水野豊造 松田茂平 有若辰蔵 根尾太吉
 戸田助右衛門 清水栄吉 四十万次郎 埜村吉蔵 
 米林嗣清 根尾栄介 岡本藤一郎 清水六太郎


 当時新潟県にチューリップ栽培が盛んだったので、翌14年には新潟の産地を視察し、栽培技術、品種、流通面での知識を吸収した。


昭和7年の庄下球根花卉実行組合
 組合員数 30名      事務所  庄下村農村会
 組合長  根尾千治     宣伝部長 五島藤市
 販売部長 戸田助右衛門   品種部長 水野豊造
 栽培面積 約2町7反歩
(昭和7年「農家副業としてのチューリップ及草苺の栽培」より抜粋)


 ところが栽培者、生産量が増加するにつれて全国の種苗業者の注目を集め様々な業者が買い付けに入り込み、生産者の間に誤解と憶測が生まれた。組合員同士が疑心暗鬼に駆られ組合は解体状態となった。

他地区への拡大

 大正末から昭和初期にかけてのこの時期、それぞれの村で農村に収入増をもたらすものは何か無いかと様々に模索されていた。各小学校に農業補習学校が併設され、家の手伝いのため昼間学校へ来られないような農村の青少年に農業に関するいろいろなことを教えた。


 そのような中で、叺、藁などの藁工品製造や醤油・味噌の加工、藺草や蔬菜・園芸品の栽培などが試行されていた。たとえば庄下村では苺の栽培が行われた。これは根尾宗四郎が自宅で作っていたものを村の人が分けてもらって栽培し始めたもので、昭和10年頃の最盛期には1日1万箱(1箱100匁)以上を出荷し、高岡・富山をはじめ遠く北海道にまで輸送された。
 

 また中野村では今井庄平が自分の農園を「中農園」と称して野菜の種、園芸作物の種や球根などを販売していた。深江村では荒木宗兵衛が鶏や鯉を飼い、野尻村では高橋善治が叺(かます)や醤油の生産などに手を付けていた。

 このような人々に庄下村の水野豊造をはじめとする球根組合の人々の挙動は注目の的となり球根栽培は有望であると判断の上で各地区で栽培者数は急激に増加した。生産者・生産量の増加にともない昭和7年には横浜の輸出入業者によって輸出も計画された。
(北陸タイムズ昭和7年5がつ4日付記事)
 当時林村、高波村、中野村、南野尻村などで相当の植え付け反別が合ったようである。

富山県輸出球根出荷組合連合会の設立

 このように栽培者は他町村で増え続けたが、肝心の庄下村では紛争が続いていた。これを収拾するための一手段として、昭和10年6月に東西砺波郡一円の栽培者を対象に砺波輸出球根花卉出荷連合会が組織された。





砺波輸出球根花卉出荷組合連合会
 会長  根尾宗四郎
 副会長 四谷順三 出村嘉之
 事務所 東砺波郡農会内

 しかし事態は好転せず、今度はその対象範囲を拡大し昭和13年2月富山県下全域に富山県輸出球根出荷組合連合会を設立した。


富山県輸出球根出荷組合連合会
 会長  根尾宗四郎
 副会長 出村嘉之 松沢清一
 理事  四谷順三 瀬尾正雄 水野豊造 出村一郎
     今井庄平 上田利作 城宝清治
 書記兼技手 宮下鉄蔵


 これより初めて混乱に終止符が打たれた。そこには庄下村の大地主で信望の厚い根尾宗四郎や瀬尾正雄、鷹栖村の四谷順三等のねばり強い説得があったのである。この連合会は、狭い日本市場を相手にしていたのではそのうち行き詰まってしまうことを見越して、その名の通り最初から輸出をめざしたのである。

 前年の昭和12年、初めて3万球ををロサンゼルスの花卉種苗業者笹島英樹(井波町出身)を通じてアメリカへ見本輸出した。結果はアメリカの人の好みに合わず、大幅に品種を改良する必要が生じた。ちょうどその年庄下村は経済更正指定村として指定され援助金が支払われたが、時の村長根尾長次郎の英断により資金を庄下村だけでなく県下一円の球根栽培者のためにオランダから新品種1万球のチューリップ球根が輸入された。その後まもなくオランダがドイツ軍に占領されたことから輸入の道は閉ざされたのでこれが戦前最初で最後の輸入となった。

 と同時にオランダからのアメリカ向け輸出が絶え、日本への注文が急増し、昭和15年にはアメリカへ40万球が輸出された。


昭和16年の富山県下の栽培面積22ヘクタール
 砺波郡  庄下、南般若、北般若、般若、太田、油田、
      柳瀬、中野、青島、種田、山野、南野尻、野尻、
      出町、鷹栖、是戸、林
 下新川郡 青木、上原、椚山など
 栽培者数 三百数十人

【砺波郷土資料館・砺波市文化協会 『となみのチューリップを育てた人びと』1996年より抜粋】

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