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B300万球の輸出見込み一瞬にして消える 2014.5.8
300万球の輸出見込み一瞬にして消える

出荷風景

 16年、アメリカからの大量注文により生産見込み300万球全量を輸出することとし、庄下産業組合高道倉庫を借りて球根を集荷し、輸出検査も終了し、荷造りをしていた7月26日、日本軍が南部仏印に進駐したのに対する報復手段としてアメリカが対日資産凍結を決定したとの電報が届き、一球も輸出することができなくなった。ようやく生産態勢ができ、販売においても輸出が軌道に乗ろうとしていた矢先のことだけに、関係者の衝撃は大きく、輸出箱の山を前にして、倉庫のあちこちで座り込む者、寝転がる者、ただ呆然とするだけであった。

北海道より乳牛を買い入れ、球根栽培と酪農の相乗効果を目指す

 昭和17年、前年輸出が不出荷になったことによりその補償金が得られ、その資金で北海道から乳牛を買い入れ、球根栽培農家に酪農奨励を行った。これはオランダの球根栽培が牛糞を多用することにより土地を肥沃にし球根栽培に効果を上げていることに注目し、富山県でも同様の成果が得られないかと計画したものである。最初水野家に入り、以後、徐々にその頭数を増し、昭和17年末までには120頭あまりが導入された。戦後も乳牛とチューリップ栽培は並行して発展することとなった。

チューリップ不要不急作物に指定される

 戦後の拡大にともない戦時体制の強化、食糧増産のため花を作る者は非国民とみなされるような風潮になった。そのうえ昭和20年2月にチューリップは不要不急作物に指定された。戦争が深刻化するに連れて働き手は戦争にとられ、肥料の配給は極端に少なくなり、かつ割当を受けた作物は何があっても供出せねばならず、栽培をあきらめる者が増えてきた。それまで大切にしてきた球根は家畜の飼料にしたり澱粉の原料にしたりされた。
 しかし、それでも戦争はいつまでも続かない、必ず平和な時代が来る、花が必要とされる時は必ずやってくると信じて、麦の間に隠すようにあるいは稲のじゃまにならないように田圃の畔に植えたりして栽培を続ける者も多かった。
 このような状況の中で関係者の努力により、わずかではあったが将来のために国から原種保存のための割当面積を受けた。組合では各個人毎に品種を割り当て、品種が混じりあわないように、病気に侵されないように細心の注意をはらって原種球の保存に努めた。

【砺波郷土資料館・砺波市文化協会 『となみのチューリップを育てた人びと』1996年より抜粋】

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