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A−2酒造りの歴史 2014.6.24
(2)江戸時代の酒造業

天保5年(1834)7月の酒造人よりの請書

2.加賀藩の酒の造石制限について




 



 加賀藩の酒造取締りが酒造りの中でどのようになされていたのか、天保9年(1838)11月の郡奉行所より町役人宛の酒造締り方申渡書によりみてみたい。天保4年、同7年、同8年と打ち続く凶作に加え、天保9年も気候が不順で不作となったので酒造の酛立を差し止めていたが、11月になって昨年の通り3分の1造りが指解となった。郡奉行はこの3分の1造り高を酒造人へ申渡し、他に加造、隠造などをせぬよう取締り方を町役人に厳重に申渡している。

 申渡書によると、まず町役人は酒造高が3分の1にあたる酒造道具を改め、酒造人に渡すこと。その他の不用の分は残らず町役人への指預けとなる。封印をし、締り方をすること。3分の1に当たる道具と不用の道具をそれぞれ書き分け、帳面を作成し、11月15日までに藩へ提出すること。酒造人のうち当年酒造を休む者があれば、その道具を残らず封印し、締り方をすること。これも指預けとなるので、帳面を作成し同日に提出すること。酛立の時は酒造人より時々届け出て、町役人が見分し造り高を調べること。酛立の割合など相違していることがあれば締り方をなし、その帳面を提出すること。諸味を絞り揚げ明桶が出たら酒造人より届け出、町役人が見分し、明桶一本一本に封印をし、締まること、絞り揚げを全部済ませたら、酒造人より届け出ること。重ねて手先役人が見分の上で明桶の締り方をなし、その上で売捌方の指図をする。といっても、全部絞り揚げ、道具などを残らず締り方をした上でないと売捌を申付けないというのでは酒造人の迷惑だから過造や隠造がまったくなく締り方をしていての願出であれば、酒造中であっても絞り揚げの分よりの売捌方を申付ける。また何時によらず役所から役人を出し改め、酒造米の買い入れ口なども取り調べ、過造などがあれば咎め方を申し付ける。必要によっては御算用場より役人を出し、締り方を申渡す。以上のように厳重に心得、酒造人に加造・隠造などの心得違いがなきよう厳重に申渡し、この取締りに対する酒造人の請書を提出するよう町役人に命じている。

 この藩からの申渡しに対して酒造人は藩へ請書を提出した。天保5年(1834)7月の酒造人よりの請書を記すと図Bのようである。

井波町能美屋豊右衛門の場合をみると、

井波町能美屋豊右衛門の場合をみると、天明8年御改造米840石の3分の1の280石が天保3年(1832)の造米高であったが、同4年にその3分の2を減じ、3分の1の93石3斗3升3合3勺が酒造米高となり、藩は幕末の布告を受けて天保5年も「去年之通三ノ二相減、三ノ一造」を申渡した。そこで酒造人は「三ノ壱之外少も増造仕間敷候」と3分の1造りを請け合ったものである。

 このように、井波町肝煎文書には酒造の全課程で作成された史料が残されているが、造石制限の文書ではこの酒造人の請書のほか、町役人の郡奉行所に宛てた酒造道具御請帳や酒造道具預り申帳の控が多く残っている。

 酒は米を原料としているため、凶作などになると米の消費を少なくするために、酒造石数を極度に制限した。酒造高の制限は天保元年12月25日付、同5年12月12日付、同7年7月付など、天保年間の史料によると、幕府の勘定奉行・大目付が触れ、御用番年寄から御算用場へと伝えられ、郡奉行が酒造人在々町役人に申渡した。

 次にこの造石制限の実態をみたのが表1である。表1は「出町史資料原稿」、福光町立図書館所蔵文書、井波町肝煎文書、『加賀藩史料』に出てくる造石制限の史料から作成した。とりあげた事項のうち上記史料で確認できない事項には「幕令」と付記した

 まず、万治元年(1658)から同3年には累年の半分造りの触れが出されている。

 寛文6年(1666)から天和3(1683)にかけても、酒造米高は減石の申渡しであった。これは前年造米高のそれぞれ半石減の申渡しで、例えば、酒造米高が10石の福光町彦兵衛は寛文5年10石であったが、同6年にその半分の5石となり、次の寛文8年には同6年の酒造米高5石の半分2石5斗となり順次現象していくが、天和3年になって延宝7年の造米高1石2斗5升となり、増高として復旧している。

 元禄年間(1688〜1704)から宝永年間(1704〜1711)にかけては、元禄13年は異なるが、5分の1造りの申渡しがあった。元禄15年から宝永5年にかけては元禄10年の酒造米の5分の1造りである。

天明年間(1781〜1789)から

 天明年間(1781〜1789)から3分の1造りの申渡しとなった。天明7年には「只今迄造来候酒造米高之内三分二相止、三分一酒造可致」とある。天明8年10月に天明5年の3分の1造り高となり、以後この酒造高が引き継がれていく。寛政年間(1789〜1801)から文化年間(1804〜1818)にかけては、「天明八年御改三ノ一酒造高」となっている。井波町肝煎文書で同時期の酒造米高の書上をみても天明8年の酒造数となっている。

 次に続く天保年間(1830〜1844)は、文書の文言では同様に「三ノ二相減、三ノ一酒造米高」などとあり、3分の1造り、3分の2造りが申渡されているが、井波町肝煎文書の酒造り請書や酒造道具御請帳・酒造道具預り申帳などをみると、天明8年御改の3分の1酒造米高の3分の1及び3分の2造りとなっており、天保4年(1833)から同10年にかけては、実質は9分の1、9分の2の造石しか認められなかったといえる(先にその全文を引用した天保5年7月の酒造人の請書を参照のこと)。天保5年(1834)7月の御算用場よりの申渡書では、「去巳年以前造来候米高三分二相減、三分之一酒造」とある。「去巳年」とは天保4年であるから、これは天保3年の酒造米高の3分の2を減じ、3分の1造り高となったものである。天保7年も「去ル巳年巳前迄酒造米高之三分二相源、三分一酒造可致候」とあり、同様天保3年酒造米高の3分の1の造りであり、同8年、同9年、同10年もそれぞれ「去年通り三ノ壱造被為仰渡」とあり、ともに天明5年の9分の1造りであった。

 天保7年11月28日付の御算用場よりの申渡書によると、同年は凶作のため酒造を差し止めていたが、同日に造酒の禁を解き加越能三州へ藩から売渡米25,500石を割り当てて酒造させることとし、その割合は御算用場より渡してある裏印物3分の1酒造米の3分の1とするとある。この酒造指解については、同年12月5日付の郡奉行所よりの申渡書では、幕府は天保3年の酒造高の3分の1造りを7月に布告しているが、「於御国方ハ未所々用米支ニ付、造縣相見合候様先月十日御算用場より申来、則申渡置候通り二候条、右公義御触ニ抱り、酒屋共心得違無之様夫々不相洩様早速可申渡者也」の状態であった。天保10年も8月12日に御算用場が酒造方の差し止めを申渡していたが、9月12日に3分の1造り(実質は9分の1造り)が申渡されている。



造石制限は幕府の触れであり

造石制限は幕府の触れであり、それをうけて加賀藩の御算用場がその触れと締り方を申渡しているのが通例であるが、天保4年(1833)10月の藩の御用番年寄の申渡書によると、幕府は「銘々造来米高之三分壱相減、三分二酒造可致」とあるが、加賀藩は「詮議之趣有之、例年之三ノ一造り候様厳重申渡」すとし、御算用場は例年造り高の3分の1より加造せぬよう締り方を申渡している。天保14年11月の御算用場申渡書にも、幕府は「三分弐仕込、三分壱減石」の仰渡であるが、「御領国ニおゐてハ近年三分壱仕込、三分弐減石之儀ニ申渡置候」とし、心得違いがなきよう締り方を申渡している。先にあげた天保7年9月7日付の文書によっても、領国令が幕令と異なる状況にあったことが知られる。

 また天明8年の酒造米高を御改酒造米高とし、同年にその3分の2減石が申渡されているが、天保年間までの文書に天明8年が御改酒造米高として取り上げられており、天明8年が天保年間までの酒造米高決定の基準となっていたことがわかる。

 なお幕令をみると、この他に正徳5年(1715)、安政6年(1859)、万延元年(1860)、慶応2年(1866)、同3年にも3分の1造り、3分の2造り、半高造りなどを布告しているが、加賀藩の対応は採集史料の中からはわからない。

 註 本文の作成は井波町肝煎文書、福光町立図書館所蔵文書、「出町史資料原稿」に依った。
(今村 郁子)



【砺波郷土資料館『砺波野が育んだ地酒』1995年より抜粋】

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