人々がまだ土器をつくることを知らなかった旧石器時代は、先土器時代ともいわれている。栴檀野地区の芹谷付近の遺跡には、先土器時代の人々がかなりの長時間、生活した跡がある。それは1万3千年ほど前のことであろうといわれている。また、同じ地区の増山高沢島遺跡からもこの時期の土器が出土している。
縄文土器が造られるようになったころの遺跡としては、市内福岡厳照寺(ごんしょうじ)遺跡が有名である。ここは標高80メートルの段丘上にあり、1976年(昭和51)に同寺西側一帯が発掘調査された。ここでは縄文人が確実に住んだ住居跡が10棟発掘されており、平安期のものもあわせて発掘された複合遺跡であり、また、縄文時代の標式遺跡ということになっている。
いま、そのなかの第五号住居跡のようすを描いてみよう。床面は6メートルに4.5メートルの長円形で、その竪穴に7本の柱が立ち、南側に炉あと、北側に食料の貯蔵穴(ピット)があるというものである。
一般に、縄文の人々は食料のない冬に備え、ドングリ、トチ、ナラ、クルミ、カシ、クリ、などの木の実を集め、住居の床に穴を掘ってしまいこんでいた。この厳照寺遺跡からは、調理用のすり石、石皿などのほか、かめ、黒曜石製の鏃(やじり)、打製・磨製両方の石斧(せきふ)、川漁用の網につけるおもり石や、純粋な造りながら土偶などの焼き物も出土しており、縄文時代の人々の生活ぶりをしのばせる。
長かった狩猟・採集の縄文時代も終わりをつげた。やがて、北九州地方から稲作農耕が伝わると、5〜600年のうちに東北地方までその技術が伝わった。この弥生のころの文化を示す遺跡は、扇央部に位置する砺波市内では数少ない。石ころの多いこの地域の開拓は、農具が木器中心の弥生期には、まだ無理だったのだろうと考えられている。
しかし、小矢部川下流の左岸や、庄川の隆起三角州地帯から、高岡市の湧き水地帯にかけては、定量の豊富な水を利用しての稲作がしだいに広まってきたと考えられる。この条件にかなう砺波市に近い弥生時代のおもな遺跡として、庄川左岸部の高岡市佐野、赤祖父、石塚などがあげられ、同じく右岸下流には、中曽根遺跡がある。この中曽根遺跡と小矢部市長の樋掛(ひかけ)遺跡からは、籾の圧痕(あつこん)のついた弥生土器が一点ずつ出土している。
【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】
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