・銀行業の創業と滋芳社
1872年(明治5)4月、政府は全国統一流通の新貨幣を発行し、続いて同年11月国立銀行条約を公布した。こうして、1873年(明治6)東京・横浜・新潟・大阪に国立銀行が開業された。一方民間からの銀行設立の気運も高まり、1876年(明治9)に三井銀行が東京で開業し、1879年(明治12)には、共立銀行・安田銀行がそれぞれ開業した。
砺波の地においても、1880年(明治13)砺波仕法銀(となみしほうぎん)をもとに、旧十村役らの力によって「滋芳社(じほうしゃ)」が創設された。滋芳社は株式組織を持ち、旧集会所建物を利用して営業が行なわれた。利益金は、各種公共的事業に寄付されることが多く、滋芳社の藩から受け継いだ公金的な性格が強くうかがわれる。また、巨費を投じて時鐘を鋳造し、1時間ごとに時報を知らせたりして、時計のなかった当時の民衆から大いに喜ばれた。
しかしその滋芳社も1881年(明治14)以降の松方デフレ政策にまきこまれて、倒産に追いこまれた。砺波における本格的な銀行の誕生は、「中越銀行」の創業まで待たねばならなかった。
・中越銀行
1881年(明治14)大蔵卿松方正義(おおくらきょうまつかたまさよし)は、国立銀行の紙幣発行権を停止し、翌1882年に唯一の兌換(だかん)銀行券の発行銀行である日本銀行を創設した。日本銀行の創業によって、今までの国立銀行は、期限を切って営業を止めるか、民間銀行に点ずるか判断をせまられた。「中越銀行」は、1894年(明治27)富山市にあった第12国立銀行の出町出張所が私立銀行に転じた結果生まれたものであった。
中越銀行の出資者は、出町を中心とする富豪地主層であった。1株50円、4000株を募集し、資本金20万円で発足したのであるが、富山・高岡両市にあった銀行を除けば、まさに県下農村部における最大銀行であった。1943年(昭和18)戦時体制のもと、銀行の大合併がはかられて北陸銀行に転身するのであるが、その間増資を重ね、合併された当時には、500万円の資本金を持つ銀行に成長していた。支店・出張所は、砺波地方を中心にしていたが、県内一円、石川県にも及び、さらに北海道・福井県まで設置されていた。
銀行は、1897年(明治30)を前後として、雨後のたけのこのように生まれてきた。砺波においても、「鷹栖銀行」「神沢銀行」「共通銀行」が相次いで設立された。1908年(明治41)には、資本は小さかったが、「般若銀行」も創業している。これらの各銀行は、その後の急速な資本主義経済の発展の中で、あるものは消え、あるものは転身・吸合されてしまった。しかし、明治・大正・昭和の10年代にかけて、砺波の商工業を発展させるために、実に多くの役割を果たし、住民の小口金融機関としても益することが多かった。
現在、中越銀行の行舎は、砺波郷土資料館としてチューリップ公園内に移転され、当時の栄えた砺波地区銀行史を我々に物語っている。
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