1585年(天正13)は、砺波の地にとって、時代の流れを大きく変えるできごとが起きた年であった。一つは砺波郡が前田氏の領有になったこと。いま一つは大地震のために庄川の河道の一部が東に移り、庄川が安定し、川跡の開発の基盤ができたことである。
前田氏が砺波郡を支配した初めのころは、豊臣秀吉の全国平定によって、新しい封建社会の基礎が固まった時代であった。秀吉は農民支配のために、刀狩りと検地とを行なった。刀狩りは1588年(大正16)方広寺造営の金具に利用するという口実で、農民の刀を没収したものである。これによって、武士は武士、農民は農民というように身分がはっきりと区別されることになった。検地は、田畑の面積を測り、とれ高やそこを耕作する農民をきめた。農民は耕作する権利が認められたが、領主はそこからうまれるとれ高を正確に把握することとなった。前田氏が砺波郡を支配してから、随時検地をすすめたが1605年(慶長10)改めて総検地を行なった。この慶長の総検地の結果が、後で述べる改作法の執行まで長く村高の基準となった。
また、このころの農民には、年貢とともに夫役(ぶやく)が課せられた。築城や道路・橋の普請をはじめ、荷物の運搬・電馬等の労役に服さねばならなかった。これが夫役で、家高(自立した高持百姓の数)に応じて、村別に割り当てられた。1609年(慶長14)、高岡城の築城にはおびただしい数の夫役の徴発があった。飛騨や五ケ山で伐り出した材木を庄川(旧千保川)へ流して高岡へ運んだが、この労務も夫役でまかなわれた。後に、夫役は農事の妨げになるとして、お金で納めるようになった。
2018.10.22T−C原始・古代の日本『家持と志留志』1〜3
2014.9.4X−C現代の砺波『のびゆく砺波』4・5
2014.9.4X−C現代の砺波『のびゆく砺波』1〜3
MORE
2020.5.19増山城リーフレット(R2〜)
2020.4.13増山城跡
2017.1.6宗半塚
MORE
2022.8.31となみの手仕事「五箇蓑・ナタヘゴ(鉈鞘)」
2020.5.12砺波の生活・生産用具
2019.2.24砺波民具展示室リーフレット
MORE