庄川が現在の河道に固定し、統一した堤防が築かれて、その動きがおさえられたのは、近世に入ってからのことである。それ以前は、庄川町金屋付近から幾筋もの分流となり、扇を拡げたように砺波平野へ注いでいた。奈良時代には、ほぼ北西に流れて小矢部川に合流していたようである。歴史時代に入ってからの庄川の南限は、野尻川もしくは二万石用水の一支流である六ヶ用水の近くであると考えられている。その後、中村川、新又川、千保川と、だんだん主流が東へ移っていった。
こうして中世末には、現在の舟戸口用水の流路である千保川を主流としていた。その頃は、まだ上流から下流まで統一した堤防はできておらず、せいぜい各村毎に自分の村を守るだけの、小規模な堤防を築いていた程度であった。
ところが、前田氏が入国した1585年(天正13)に大地震が起こり、庄川の様相は一変した。まず、金屋の対岸で山崩れが起こって庄川の水流を堰止めた。幾日も滞り、やがて満水した水は文字どおり堰を切ったように流出した。このとき、水流は弁財天社のところで二つに分かれ、一つはもとの千保川へ、もう一つは、当時中田川という小流にすぎなかった現在の庄川の流路へ流れ入り、新しい川筋を作った。
その後、1630年(寛永7)の洪水をはじめ、たびたびの出水で、現庄川の川幅はだんだん広くなっていった。この流域は、砺波平野でも比較的早くから開けていただけに、耕地や人家も大きな被害を受けたと考えられる。例えば、福岡の厳照寺は、当時、現在の庄川の川中にあったが、洪水のため寺屋敷を失った。そのため、数年間、宮森村に仮居した後、1647年(正保4)に、現在の芹谷野段丘上に移った。
しかし、その後また千保川の方へ多く流れるようになったので、前田利常は中田川(現庄川)を浚渫(しゅんせつ)して、そこへ水を移すように命じている。これは、千保川の下流にある高岡の町を水害から守るためで、特に、前田利長の菩提寺として造営された瑞竜寺の寺域に水がつくのを避けたかったのであろう。しかし、その頃の諸用水が千保川から取り入れられていたので、本流が中田川へ移されては干ばつのおそれがあるとして、地元からは強く反対された。このため、中田川へ移されては干ばつのおそれがあるとして、地元からは強く反対された。このため、中田川が浚渫されたか否かは不明のままになっている。しかし、ここに、明らかに庄川を東へ移したいという加賀藩の意向がくみとれる。これが後の松川除築堤の構想へとつながっていく。
また、この頃、千保川の右岸、柳瀬村あたりで「柳瀬普請(ふしん)」あるいは「柳瀬の升形工事」と呼ばれる大治水工事が行なわれていた。砺波郡をはじめ、射水・氷見からまでもおびただしい役夫を動員して、この川除工事が行なわれていたことが記録に残されている。
1670年(寛文10)、加賀藩では、千保川をはじめ、野尻川・中村川・新又川の諸分流をしめ切り、全水勢を中田川一本に注がせるため、庄川の出口の弁財天社前で大堤防の築堤にとりかかった。これがいわゆる松川除堤防である。この主たる目的は、高岡町に水がつくのを防ぐためと、改作法によって急速に開発が進んでいる砺波平野を水害から守るためであった。
この工事はなかなかの難工事で、着工から44年後の1741年(正徳4)にようやく完成している。全長役2500m、堤防上に補強のための松が植えられたので、「松川除」とよばれた。以後、砺波平野は洪水の害から安定し、今までの分流跡の開発が急速に進んでいくことになる。それでも、1772年(明和9)の大洪水のように、この堤防が切れることもあり、藩は幕末末まで補強に苦心していた。
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